大阪城豆知識

大阪と大坂|天守閣の実像天守が2つ!?巨石の正体
かつての威容大阪遷都計画太閤人気と徳川幕府

大阪と大坂

大阪城は、大阪市の中心部に位置する大きな城郭です。見事な石垣や天守閣が特 徴です。本などを見ると、ときどき「大坂」と表記されることがあります。これはどういうことかというと、昔は「大坂」と書いていたからなんです。

天守閣の実像

今我々の見ることの出来る大阪城天守閣は、少し複雑な経緯を辿って存在しています。ご存知の方も多いと思いますが、説明しようと思います。

大坂城絵図  昭和6年に再建された現在の天守閣は、豊臣秀吉が建てた大坂城をモデルにしています。左はモデルにされた図です。しかし、天守台(天守閣の石垣)や、櫓、すべての石垣つまり天守閣の建物以外は、徳川幕府が開かれてから建てられたものです。
 近年の発掘調査により、大阪城の地下から石垣が発見されました。その石垣が豊臣時代のものだとすると、現在の大阪城は豊臣の大坂城のうえに盛り土をして建てたことになります。ということは豊臣時代の天守があった場所に徳川の天守台があり、その天守台には豊臣時代の天守に似た天守が建っている・・・ということになるわけです。


天守が2つ!?

豊臣氏との緊張が高まる中、慶長5年徳川家康は藤堂高虎に命じて西の丸に天守を建てさせました。このことが関ヶ原の合戦の一因になったのです。この天守は大坂夏の陣まで残り、この間大坂城には天守が2つ存在していたことになるわけです。


巨石の正体

巨石  城内の門の石垣などに見られる巨石。これは大阪城の名物のひとつになっています。


かつての威容

本丸の古写真をご覧になったことはありますか?何と、本丸は11基もの3層櫓で固められていたのです。3層櫓といえば、小さな城では天守に相当し、それが11基もあったというのは桁外れな規模です。高石垣とあいまって当時はさぞかし壮観だったことでしょう。


大阪遷都計画

 鳥羽・伏見の戦い終了後、大久保利通によって大坂遷都の建白書が出されました。もし遷都が実行されれば、大阪城は皇居になっていたでしょう。しかし、「大坂は首都とならなくても衰退しないが、江戸はそうではない」との理由から、実現しませんでした。


太閤人気と徳川幕府

大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後、徳川氏は豊臣氏の大坂城を地上から消し、その上にまったく新たな城を築きました。豊臣氏の痕跡を亡くし、徳川氏の力を見せる意味もあったのでしょう。
秀吉像


参考資料:岩波グラフィックス 18 「大阪城」岡本良一書、岩波書店、1983
大坂城、岡本良一、岩波書店、1993

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