幕末に活躍した志士と、残した言葉、ゆかりの地を紹介します。
[ 吉田松陰|高杉晋作|坂本龍馬|お勧めの本 ]吉田松陰が死の直前に獄中で書き上げた「留魂録」の出だしの句である。
高杉晋作が回天義挙(クーデター)に起ち上がる前に、死を覚悟して書き送っ た遺書に書かれた墓標の指定である。これを見ても彼自身一番の功績が奇兵隊創 設であったことが伺えるが、注目したいのは彼が死を覚悟していたことである。
現代とは違い、規律の厳しかった武士社会においては潔く死を迎えることが美 徳とされていた。彼はかつて師吉田松陰に死について質問している。それに対す る松陰の答えは「死ぬべきと思ったときには潔く死ぬべきであるが、無駄死にと 分かる場合には生きるべきである。」であった。高杉はその言葉通り逃げるとき は逃げた。そして死ぬべき時を見い出し、決死の覚悟で俗論派に向かっていった。 この行動力が彼の魅力であり、功山寺決起は長州維新史のハイライトである。
俗論はを打ち破った高杉はそのまま指導的立場につくどころか、洋行する(外国に行く)と言い 出した。そのときにこの言葉を残している。
高杉晋作辞世の句。これを書いた後高杉は続ける力もなく、野村望東尼が「住み なすものは 心なりけり」と続けた。高杉はこれを見て「おもしろい」と言った そうである。そして彼が息絶える直前に「吉田へ」と言ったとされる。師吉田松 陰を指すのか、奇兵隊のあった地を指すのかは分からない。ただ彼の墓は奇兵隊 のあった地に造られた。葬儀は白石正一郎がとりおこなった。
白石は、奇兵隊設立時に資金を提供した人物である。奇兵隊に資金を捧げ、維新後は神官としてひっそりと暮らしたという。奇兵隊結成時高杉25歳、白石53歳。親子ほども年齢差のある2人だが、白石はこの若者のために私財をなげうった。白石の生き様もまた興味深いものである。
幕末期、高杉晋作の子分だった伊藤博文が高杉の死後、彼をを評した言葉。高杉の行動力をよく表している。
坂本龍馬が手紙に書き記した言葉である。日本を洗濯するという発想が彼らしい。
土佐藩(現在の高知県)出身の坂本龍馬は剣の達人である千葉重太郎と共に勝に面会。勝は大姦物であるとの噂を聞き、斬るつもりだったらしい。だが、勝の話を聞くうちに勝という人物に惚れこみ、その場で弟子になったという。これは後に勝が当時を回想した言葉である。
大政奉還後、坂本龍馬は新政府の役人の配分を考え、閣議案を西郷に見せた。し かしそれには坂本の名前がなかった。西郷は不思議に思い、坂本自身はどうする つもりなのか尋ねた。そのときに彼が答えた言葉である、と海援隊士であった陸奥宗光は 後年語っている。
坂本龍馬は京都の近江屋で中岡慎太郎といるところを刺客に襲われ、背中、頭な どを斬られ、まもなく絶命した。これが最後に残した言葉である。奇しくも彼の 誕生日だった。1カ月前に大政奉還が行われ、まさに明治到来目前の惨劇だった。