九州北部・四国


データ

期間:1998年3月18〜23日
交通手段:自動車

3月18日

 近鉄で実家に帰った。家に着いたのは21時半過ぎで、夕食を食べ、風呂に入った後23時半前、車で出発した。名阪国道、西名阪自動車道、阪神高速、第2神明、とほとんど止まらず走り続け、かなり快調だった。その後は国道2号で西に向かい続けた。(98/03/19 18:48:04 記入)

3月19日

 徹夜で走り続けた。何回か渋滞に巻き込まれたものの、13時頃には九州に渡った。福山あたりで空が明るくなり始めた。ひとめでも見ようとよそ見をしながら運転したが、本当にひとめしか見れなかった。しかもコンマ何秒で、「見たような気がする」という感じだった。福山城を。

 広島に入ると、今度こそとばかりに頭を動かした。しかし広島城は見れなかった。福山城と広島城という名城を素通りするのは残念なことだが、目的地は遠いのだから仕方ない。従ってひとめでも、と意気込んだが無念だ。あと岩国城も見れなかった。

 国道2号を走っていて感じたのは、トラックの排気ガスの凄さだった。真っ黒な煙を吹き出しながら走っている。それがフロントガラスにかかったりして気持ち悪い。窓を開けていられない。しかも夜中はほとんどトラックしか走っていない状態だった。もっと貨物鉄道を利用するべきだろう。

 さて、ほとんど休憩無しで、走り続け、昼過ぎにようやく関門トンネルを通過した。今海中を走っていてこれを抜けたら九州かと思うとわくわくした。ちなみに徹夜で走ったのは初めてだが、ほとんど眠気には襲われなかった。なぜか目は痛かったが。

 九州に入り、嬉しかったのは憶えている。最初の目的地は小倉城だ。小倉城は外からはどこにあるのか分からなかった。近くの市営地下駐車場に停め、小倉城へ行った。数日前に備中松山城へ行ったときもそうだが、天守閣の実物を見るとその迫力に圧倒される。写真ではどうしても味わえないものだ。圧倒されると同時に感動も起こる。

 しかし小倉城は外からは全然目立たない。高層ビルなどに隠れるからだ。従ってあまり街のシンボルのようには見えない。天守閣に入ったが、ここでも少々興ざめするものがあった。完全に観光施設化していたからだ。

 1人ではあまり来たくはなかった気がする。中には制服を着た人があちこちにいた。平日ということで観光客は少なく、明らかに人数余剰だった。極めつけは最上階で、年配の人と若い人が売店に座っていて、寝ていた。客は誰もいなかったのできまりが悪く、落ち着いて景色が見れなかった。徹夜の影響もあるのか、なんか寂しくなってしまった。小倉城には3層の櫓もあり、食事ができるようだったが、閉まっていた。新発見だった。

 というわけで小倉城はいまいちだったが、石垣は自然石を使っているようで迫力があった。しかし積み直しの石垣もあり、アンバランスだった。全体的に近代公園のような感じで、昔の面影を失いつつあるようだ。

 次は福岡市に向かうつもりだったが、渋滞しそうなのと大都市の道はあまり走りたくなかったので取り止めた。ダイエーファンとしては福岡ドームを外からでも見たかったが、次の機会にしよう。で、国道200号で、南下した。鳥栖で高速道路に入り、西に向かった。金立サービスエリアに入り、ここで寝ることにした。

 鳥栖からの高速道路では、結構眠気と闘っていた。運転中に眠気に襲われたのは初めてではないだろうか。サービスエリアでは19時か18時頃寝た。(98/03/20 23:47:25 記入)

3月20日

 6時半起床。よく寝た。何回か目が覚めたのは、激しい風雨のせいだろうか。ともかく高速を出て長崎に向かおうと思っていたが、ふと佐賀に寄ることにした。ほとんど通り道だったからだ。

 佐賀城を見つけるのはかなり苦労した。鯱の門からは少し離れた市営駐車場に停めたので、ちょうどいい朝の散歩になった。佐賀城は特に期待はしていなかったが、堀だけは素晴らしかった。幅は広く、満面に水を湛えていて見事というほかない。

 話は変わるが、この日記を書いている現在、もう九州にはいない。海上だ。揺れている。それはさておき、長崎には渋滞に巻き込まれて思いのほか時間がかかった。特に長崎に入ってからが長かった。まずシーボルト記念館に行こうとしたのだが、見つけるまでに何回か同じ場所を周ってしまった。手元の地図が悪かったせいもあるだろうが、原因は看板を見落としていたことだった。

 シーボルト記念館は結構良かった。高校のときに司馬遼太郎の「花神」を読んでいたからシーボルトの娘のイネについての知識があり、その予備知識のおかげで興味深く見ることができた。

 次に向かうは原爆関連だ。まず資料館へ行った。新しい建物が完成していて、きれいだった。しかし展示物は凄惨なものだ。原爆の凄まじさを語る遺品が大量に置かれていた。説明を読むと、生き残った人が故人の形見として大切に持っていたものを、原爆を後世に伝えるために、ということで提供されたものが多かった。

 他にも原爆の実物大の模型や落とされる前と後との写真、被爆者の写真などかなり充実した内容だったと思う。長崎に行ったなら必ず寄るべき場所だろう。資料館を出て爆心地に向かった。すぐ近くにあり、公園になっていた。落下時の地層も見ることができ、表面上は面影のない地上の下には当時の土が眠っていることを知った。

 長崎で最後に向かったのはグラバー園だ。思い出す、高校の修学旅行でグループ行動をしていたときのことを。グラバー園に行くか行かないかで多数決をとり、賛成1であとは反対だったので結局行かなかったのだった。このときグラバーが幕末の志士と交友があったのを知らず、後になって行けばよかったと思ったものだった。ともあれ4年ぶりぐらいに再び付近を歩いた。

 本当はグラバー邸だけでよかったのだが、入園料で600円もとられたので、ダッシュで他の洋館を見ることにした。でグラバー邸・・・ここで再び話が変わるが、左手に三崎灯台が見えてきた。思い出す、四国を旅行したときのことを。結構寂しくて怖かった思い出がある。ここからなら岬の形がよく見える。恐竜のうろこみたいだ。工事中だった灯台が合図を送っている。佐田岬半島先端部

 話を戻そう。グラバー邸の庭からの眺めは素晴らしかった。長崎の街がよく見え、船が停留していて長崎らしく思えた。ここで亀山社中がどこにあるのか調べておくのを忘れたことに気づいた。残念だが、まあ今はもう碑ぐらいしかないだろう。

 風邪気味のため体がだるい。しばらく景色を楽しむとしよう。続きは後にして。(98/03/21 17:43:36 記入)

 というわけで大洲の旅館にて続きを書く。長崎は結構良かったが、道が良く分からなかった。カーナビがあれば便利だったろう。長崎で時間を取られたおかげで、島原には行けなくなった。というのも国道34号でさっさと東に行きたかったのだがどういうわけか北上していた。仕方なく有料道路の長崎バイパスを走った。これはそれほど高くはなかったが、つい調子に乗って続きの高速道路を1区間だけ走ってしまい、高い料金を払うはめになった。

 まあ次の目的地は熊本なわけだが、有明海をショートカットするためフェリーを利用した。TMさんのアイデアだ。多比良から長洲までの有明フェリー。料金は安く時間も40分程だった。景色を楽しみにしていたが、あいにく雨が降っていた。今までフェリーでまともに素晴らしい景色を見たことがない。いつも夜か曇天だった。何とも面白くない。ちなみに今回の旅行は、小倉から既に雨が降っていた。

 雨が降っていて風が強くても、せっかくだから甲板に出て海を見つめたりしていた。おそらくこれが風邪気味になった原因だろう。長洲に着き、南下して夜に熊本に着いた。ゆっくり寝たかったので宿泊所を求めてしばらくさまよった。熊本城内にも入っていき、そこでライトアップされた宇土櫓に出会った。迫力があり、格好良かった印象が残っている。

 千歳ホテルというガイドブックにも載っている旅館に決めた。ちょっと高めだったが城に近かったので歩いて行けそうだ。一度部屋に入った後夕食を食べに市街へ出かけた。夜だったが人が多く、落ち着かなかった。桂花(こんな漢字だったと思うが)ラーメンという店で同名のラーメンを食べた。味わったことのないスープで、そこそこうまかったのでラーメン好き(だと思う)の姉に土産でも、と思ったが日持ちが悪いのでやめた。(98/03/21 23:04:14 記入)

3月21日

 7時45分起床。8時朝食。起きたら体がだるく、喉が痛かった。せっかく学生ということで朝食をおまけでとらせてもらったのに、あまり食べれなかった。食べている途中でも横になるほどだるく、少々不安になった。

 それでも熊本城は長崎と並んで今回のたびのメインなので9時から1時間で周ることにした。旅館のチェックアウトが10時だったためだが、ちょっと頭を使えば先にチェックアウトを済ませてから熊本城へ行けばゆっくりできただろう。つい10時までに帰らなければならないという固定観念が離れなかった。

 そういうわけで最初は無理をせず歩いて行ったのだが途中からは走って移動するようになった。特に天守閣の展示物はほとんど説明を読まず周るだけ周った。ただひとつ憶えているのは、西南戦争の史料だけだ。わずかだったがなかなかよかった。あと、西南戦争直前の古写真もあったような気がする。

 それにしても見事だったのは石垣だ。天守台の石垣は地面から辿ると最初は緩やかでありながら急にきつくなる勾配がかなり極端で、なかなか迫力があった。あと、宇土櫓の石垣は高くて見事なものだった。 宇土櫓

 その宇土櫓に入れるようになっていたのは嬉しかった。宇土櫓は天守閣級の規模を誇る立派な櫓で、近くの宇土城天守閣を移築したものだと言われていた。説明を読むと、近頃行われた修理によりその説が疑わしいことが分かったらしい。これは初耳だ。

 少し話は別の次元に行く。現在大阪へ向かう特急列車の中だが、喫煙席のため非常に息苦しい。他の人はよくこれで平気なものだ。まあこのことは21日とは関係がない。

 城内では写生大会が行われていて、結構人がいた。皆天守閣のほうを向いており、地元ではやはりシンボルになっていることをうかがわせ、いい光景だった。天守閣を前に、ようやく自分の姿を写真に撮ってもらった。今回の旅ではろくに写真を撮っていない。日記で思い出を残し、写真は参照程度にしようという企みだ。逆にしたほうがいいのかもしれないが。

 ともあれ熊本城はダッシュで駆け抜けた。車に乗って次に向かうは阿蘇だ。阿蘇には国道57号で向かったが、ひどい渋滞だった。阿蘇には寄るつもりはなく、車窓からの風景でも楽しもうと思っていたが、普通の景色のまま通過してしまった。

 どこかで左折し、やまなみハイウェイを走った。途中、郵便局で金をおろした。ガソリン代を考えておらず、いつのまにか金が足りなくなっていた。かなりあせったが、祭日に空いていて本当に助かった。

 やまなみハイウェイである看板が見当たらなかったので本当にやまなみハイウェイなのかよく分からなかったが、なかなかすごい場所を走った。周りに何もない。1面の草原。あまり車がなかったのでマイペースで走った。

 なかなかの時間走り続け、湯布院に入った。温泉があれば入るつもりだったが、まだ明るかったのと人が多かったりして探すのが面倒だったのでそのまま出て別府に向かった。やがて別府につきあたり、右に曲がり大分に入った。せっかく沿線に大分城があるので、つい寄っていった。

 大分城は櫓が数基と門、そして近年建てられた廊下橋のようなものがあった。櫓を裏側から見てみると、櫓が石垣に収まっておらず、はみでていた。コンクリートが見え、格好の良いものではなかった。外側から見ると堂々としていたが。

 さて、大分は城だけ行ってさっさとさらに東へ向かった。着いたのは佐賀関。九州を横断した。ここからフェリーに乗った。フェリー中で日記を書き、左手に佐田岬半島が見えたのは20日の日記にあるとおりだ。こうしてあっさりと九州を離れ、四国へ上陸したが、特に感動はなかった。懐かしさもあまりなかった。淡々とドライブを続けた。

 メロディーラインを東へ。八幡浜から大洲へ。大洲で泊まることにした。熊本からの運転で、最初はだるさでつらかったが徐々に楽になっていったものの無理をしたくなかった。もうひとつ、ガイドブックに安い宿が載っていたからだ。

 名前は松楽旅館。素のまま読むと「まつらく」と読んでしまう。道を聞くと、しつこく「しょうらく」と言われた。その旅館に車を止め、歩いて食堂を探した。もう夜だったので人通りも少なく静かだった。結構歩き、やっとお好み焼き屋を見つけた。食事を終え、勘定を済ませると「どこかにお泊りですか」とか聞かれたので、つい「まつらく・・・」と言ってしまった。(98/03/24 14:14:59 記入)

3月22日

 8時前起床。さっそく大洲城へ散歩に出かけた。大洲城には4つの櫓があるが、本丸に2つ、堤防の近くに1つ、あと1つが離れた場所にあった。本丸からは川と町並みが見え、なかなかの眺望だった。

 3つの櫓は見つかったが、離れたあと1つの櫓が分からなかった。チェックアウトを済ませ、1つの櫓を探しに行った。それは学校内にあり、グラウンドを見下ろしていた。なんとなく城内にたくさん家があり、町と一体化しているように感じた。石垣に家が建っているのだからすごい。

 国道56号で宇和島に向かう。程なく着いた。城の山は思ったより高くなかったが、実際登るとなかなか大変だった。途中井戸丸か何かがあったが、かなり小さかった。間近で見る天守閣は、やはり美しかった。しかし入場料はちょっと高いと思う。たった300円ではあるが、300円分の価値があるとは思えないからだ。

 内部は実に単純で、真ん中に部屋があり、周りを廊下が囲っているだけだ。1階、2階3階と天井は低くなっていった。展示品がお粗末だった。他の城の写真や修理の時の遺物が展示されていただけだった。

 あと巨大な絵が2枚飾ってあった。最後の宇和島藩主、伊達宗城とその前の藩主の絵だった。伊達宗城は名君だったらしいが天守閣の展示品は絵だけだった。おそらく城下の資料館にあるのだろう。

 その資料館には寄らなかった。珍しく5角形である城の周りを車で走った。途中登り立ち門の傍にいきいなり児島惟謙の銅像があったのには驚いた。説明によると宇和島出身ということだった。やはり関西大学の創立に関わったことが書いてあった。せっかくなので門と車と銅像をバックに写真を撮ってもらった。

 さてあとは四国を横断した。とりあえず国道320号で東へ向かい、国道440号で北上した。四国カルストと呼ばれる場所だったらしいが、通り過ぎた。国道439号でさらに東へ。途中どこだったか忘れたが、滝のように上から水が落ちてきている場所で車を止め、顔を洗った。非常に冷たく、気持ちよかった。

 国道439号は、ひどすぎる道だった。所々でバイパスの工事をしているもののほとんどが未完成で、車1台しか通れないような道が続いた。何故か同じ方向に向かう車はなく、対向車ばかりだったが、こっちは軽自動車だったので楽に行き違いをすることができた。

 だが行き違うスペースがなくこちらが後退せざるを得ない場合があったのだが、ここで失敗してしまった。ハンドル操作を誤って焦ってしまい、壁に少し当たってしまった。後部バンパーにわずかに傷がついた。

 それからはもう1種のきれた走りになった。それまで20−30キロでとろとろと走っていたのだが、50近くまで飛ばすようになった。国道32号に入る頃にはようやく落ち着くようになっていた。大歩危・小歩危を通過した。右側にあったため国道からではほとんど見えなかった。停めて少しでも見ておきたかった。

 池田町に入り、国道192号で左に吉野川を見ながら走った。左手に城郭っぽい建築物があり、気になって行ってみた。それは川島城で、内部はレストラン等になっていた。無料だったので一応登っておいた。一応鎧などが展示されていた。

 徳島市に入ったのはもう夜だったが、泊まるには早すぎた。せっかく城があるのだから、夜でも行ってみることにした。鷲の門が再建されていたのは初めて知った。豪快な門で、夜とはいえなかなか迫力があった。中に入るとほとんど人はいなかった。御殿風の資料館のようなものがあったが、閉まっていた。他には蒸気機関車が置いてあったりしていい公園だと感じた。

 暗かったので山には登らなかった。どうなっていたのか気になるが、仕方ない。城内には、昔ここが海だったことを示す波で削られた跡のある岩があった。確かにそんな感じだった。

 徳島から鳴門はすぐだった。鳴門公園のほうへ向かい、泊まれるところを探した。どうしようか迷ったが、もう大鳴門橋を渡ってしまうことにした。夜だから景色は分からない。渡った後にパーキングエリアがあったのでそこで泊まることにした。自動販売機でカップうどんを買った。本当はそれまでの道で食堂に入って食べたかった。だが迷い過ぎて入れなかった。

 食べようとすると、犬がこっちを見ていた。いかにももの欲しそうな目だったので、せんべいを少しやった。ドアを開けると離れてしまい、なつかなかった。そのくせ少し離れたところで座ってこっちを見つめている。その犬は他の車が来るとそっちに寄って行って座っていた。そして他に車がいなくなるとこっちに寄ってくる。なんとかなれさせようとしたが、なかなかできなかった。(98/03/26 12:23:15 記入)

3月23日

 8時起床。犬はいなくなっていた。パーキングエリアは3階建てで、2階に資料が展示されていた。マッサージ機があり、周りに誰もいなかったので遠慮なく使った。3階は展望台だった。パーキングエリアで朝食をとっておけばよかったのだが、高速を降りたらもっといい店が見つかるだろうと思った。

 パーキングエリアと出口が同じだったので、すぐ降りた。料金所の人に、「泊まったの?」と言われた。何故ばれたんだろう。髪の毛だろうか。まあ、よいわ。国道28号で北上す。途中にある洲本城はせっかくだから寄っていくことにした。それまでいい店が見つからなかったので朝食もとらず城に行った。ドライブウェイで結構登った。

 天守台にはへんてこな展望台が建っていた。道を間違えてしまい、天守台を回る感じになってしまったが、面倒になり石垣を登ることにした。結構高さがあり、石垣も隙間があまりなかったが、何とか登った。フリークライミングは趣味ではないが、石垣だけはつい登ってしまう。もちろん周りに人がいない場合だけだ。危険だから滅多にしないが。

 城には犬が3匹いた。1匹はつながれていた。もう1匹は動き回っていた。なでたかったが、これまたなつかない。ある程度近くまでは寄れるので、しばらく後を追いかけた。もうちょっとと思ったら、吠えられたのであきらめた。猫ならまだしも犬にまでなつかれないのはちょっとショックだ。

 ショックを受けながら降りると、もう1匹の犬がいた。金色の毛がきれいで、こちらはかなり人なつこかった。非常にかわいかったので、写真でも撮っておけばよかった。そういえば動物の写真はほとんど撮ったことがない。金太郎ぐらいか。あまりにもなつこかったのでついてきてこられても困るから、別の道から降りた。

 海沿いを走りながら、早く何か食べたいと思っていた。津名すらも過ぎ、北上を続けると、突如巨大な像が左手に現れた。でっかいなーと思いつつ走り、左に曲がって周りを1周してみた。説明では自由の女神より高い150メートルあるということだった。登ってみようと思ったが、入場料が必要だったためやめた。

 隣のレストランでようやく食事にありつけた。海の幸カレーとかいう貝や海老の入った変わったものだった。辛い方が好きなので中辛にしたが、これがまた辛かった。水を2杯飲んでやっと食べた。

 再び北上を続けると、東浦町に入った。ボランティア先の担当の人が同じ名前なので何かつながりがあるのかと考えながら走った。順調に岩屋まで行ったのはいいが、フェリーは何と3時間待ちだった。よもやこんなに混んでいるとは思っていなかったのでびっくりした。

 一応明石海峡大橋の近くを走ってから引き返し、淡路フェリーというちょっと距離が長いだけで料金がやけに高いフェリーを使うことにした。こちらは次の便ですぐに行けた。

 橋を遙か左に見ながらの航路だった。はっきりと橋桁のしなりが見えた。なるほどああして吊っているのかと感心した。半ば放心状態で橋を見つめていた。ようやく気持ちよく晴れたなかでの航海ができた。 明石大橋を望む

 久しぶりに本州に上陸したが、全然感動などはなかった。離れたときは結構感動したものだが。てきとうに走って国道2号に入り、明石に向かった。以前行けなかった明石城に行くためだ。橋の近くを通るとき、何かイベントがあったのか人が大勢歩いていた。

 明石城には何も地図がなかったのでてきとうに走って探した。山っぽいものがあったのであまり迷わず行けた。駐車場には結構迷ったが、近くの500円もする駐車場に停めた。6時間まで500円だったのでもったいないと思いながらもじっくり歩こうと思った。

 公園内は結構人がいた。いかにも市民の公園という感じだった。あちこちで石垣が積み直されていて、新しかった。櫓は1基が修理中でほとんど見えず、もう1基も近くには行けなかった。石垣の上を歩いていると、瓦があちこちに落ちているのに気がついた。当時からあったものかは分からないが、石垣の上にあるのだからその可能性はあるだろう。こんなことは初めてだったので興奮した。かけらを1つだけ持ち帰った。それにしてもやたら多く落ちていた。

 後は帰るだけだ。阪神高速を使うつもりはなかったがついレーンに入ってしまい、使うはめになった。結構混んでいて止まったりしたが、車が急に揺れだして不安になった。そういえば徳島あたりで室内灯が使えなくなり不便だった。まあ車が使っているうちに不都合がでるのは自然なことだが。

 西宮かどこかで降り、国道171号で茨木に行くことにした。大阪市内はややこしそうだったからだ。案の定混んでいて時間はかかったが、無事慣れた茨木の道に入り、とりあえず家に戻った。郵便受けにはびっしり郵便物が入っており、ドアノブにもかかっていた。19時半頃だったと思う。しばらくゆっくりしてから実家の方へ向かった。

 経路は国道163号を使うルートだ。163号はやたら早い車がいて、どうやったらあんなに早くカーブを曲がれるのだろうと思った。名阪国道に入り、実家に戻ってきたのは23時頃だった。

 ちょっと旅行を振り返ると、九州でトンネルでの点灯をしない車が多いのには驚いた。あと、ラジオを聞いていると方言が入っていたりして土地柄を感じた。また、走っていていつのまにかその地方のナンバーの車ばかり走っているのに気づいておもしろかった。その県内にはその県のナンバーの車が走っている。(98/03/26 23:42:27 記入)