城郭探訪録:三重編




三重県伊勢伊賀志摩紀伊

歴史:
 三重県はかつて紀伊国の一部と、伊勢国、伊賀国、志摩国であった。南北朝から、伊勢南部では北畠氏が勢力を持っていた。後に織田氏の伊勢侵攻により合戦が行われ、大河内城などが合戦の舞台になった。
 以後伊勢では織田氏による支配が行われ、松ヶ島・安濃津・神戸の3城にそれぞれ5層の天守が築かれた。
 江戸時代は伊勢・伊賀に藤堂高虎が入封し、伊賀上野城や津城を改修した。他は菰野藩、神戸藩、桑名藩、鳥羽藩、長島藩、久居藩、亀山藩、忍藩、紀州藩があり、四日市などに天領、そして伊勢神宮は神領となっていた。
みどころ:
 遺構をみると、亀山城に多聞櫓が残っている。長島城や神戸城などでは門等が移築されている。津城や伊賀上野城に復興建造物がある以外は、建造物が見られる城はほとんどない。ただ、名張陣屋に殿館等が残っている。
 石垣のよく残る城としては、神戸城(天守台のみ)、亀山城(天守台のみ)、津城、伊賀上野城、松阪城、田丸城、赤木城がある。特に伊賀上野城の高石垣は見事である。

参考文献
各自治体へのリンク

地図:

一覧:

旧国名所在地城名現存
建築
移築
建築
復興
建築
石垣備考
伊勢
桑名市長島城
桑名城
菰野町菰野城
力尾城
千種城
金ヶ原城
いなべ市田辺城
治田城
大井田城
四日市市萱生城
羽津城
茂福城
楠城
西坂部城
采女城
鈴鹿市神戸城野面積みの天守台が残る。
大久保城
高岡城
国府城
岸岡城
沢城
亀山市亀山城県下唯一の現存多門櫓。
峯城
鹿伏兎城
関氏正法寺山荘
川俣城
津市津城
上津部田城
川北城
栗真中山城
伊勢上野城
黒田城
今峯城
安濃城
家所城
長野城
久居陣屋
宮山城
戸木城
木造城
霧山城北畠氏の本城。
松阪市松阪城野面積みの石垣が見事。
松ヶ島城
阿坂城
大河内城
玉城町田丸城石垣がよく残る。
大台町三瀬砦
伊賀
伊賀市伊賀上野城日本で2番目に高いという石垣と、昭和初期の木造天守。
福地城
丸山城
田矢伊予守城
百地丹波城
名張市名張陣屋
志摩
鳥羽市鳥羽城
田城城
紀伊
熊野市赤木城野面積みの石垣が見事。
大栗須城2段に渡る石垣が見事。
小栗須堂ヶ谷城
小栗須城
紀宝町鵜殿城
京城



詳細:

三重県(伊勢伊賀志摩紀伊


長島城

場所桑名市長島町西外面
形式平城
歴史江戸時代は長島藩がおかれた。
遺構門(移築)
現況現在は学校の校地となっている。わずかに道路の屈曲がかつての名残をとどめており、川を利用した堀が残っている。

桑名城

画像 [蟠龍櫓城壁1城壁2城壁3]
場所桑名市吉之丸
形式・指定平城・県指定史跡
探訪1998/08/29
歴史慶長6年(1601)、本多忠勝によって築かれた。松平定綱の頃城は完成し、4層の天守があった。元禄14年(1701)の大火で多くの建物が焼失し、宝永7年(1710)に復興したが天守は再建されなかった。戊辰戦争で建造物は破壊され、その後明治4年、石垣は四日市港の石材となった。
遺構石垣・土塁・堀・天守台
現況現在は九華公園になっている。
感想
”歩いているうちにどこが本丸かは把握できた。本丸内で櫓に関する看板を発見できた。1つは神戸櫓で、神戸城移された2層櫓だったそうだ。もう1つは3層櫓で、天守が失われてからは代用となっていたらしい。どちらも盛り上がっており、櫓の跡だと確認できた。”'98.8.29

菰野城

場所三重郡菰野町藩内
形式平城
遺構土塁・堀が残る。
探訪2020/02/12
正式には陣屋である。菰野小学校敷地となっている。

力尾城

画像[]
場所三重郡菰野町菰野(見性寺の裏山)
探訪1999/09/26
感想
“木が伐採されていて、切り株以外は一切植物が生えてなかった。堀切によって郭が区切られていた。山崎山城に雰囲気が似ているが、面積は倍以上あったと思う。
 土を固めた階段がいくつかあったが、これも発掘されたものなのか気になる。説明なしでは、当時はどういう様子だったのか想像するのは難しかった。復元図があれば見てみたいものだ。…  …見晴らしはかなり良かった。”'99.9.26

千種城

画像[土塁]
場所三重郡菰野町千草
形式・指定平山城。県指定史跡。
遺構土塁・空堀
探訪2000/02/16
歴史千種氏の居城。
感想
“ …後年のものと思われるが、枯葉に埋もれた、味のある階段を登った。
 奥には主郭らしい広い平地が広がっていた。まず目に付いたのは巨大な碑だ。写真で見たことはあったが、まさかこれほど大きなものとは知らなかった。地面は赤みがかっていた。小さい碑もあり、どうやら平成8年に整備されたらしい。
 …城址から感じられたのは、整備が中途半端だということだ。平らな石の椅子や、立派なトイレ、土塁に登る階段などが目に付いたが、城ということを感じさせるような整備ではないと思った。2000.2.16”

金ヶ原城

場所三重郡菰野町千草(千種神社)
形式平山城
遺構土塁

田辺城

場所いなべ市北勢町田辺
形式平山城
遺構土塁・空堀
探訪1999/04/25
感想
” 土塁が見事に残っていた。堀も巡っており、いかにも城跡といった雰囲気だった。ふと先日訪れた大久保城を思い出したが、大久保城よりも規模が大きく、よく残っている。なかなか具体的な描写ができないが、ひょっこり土塁が完存といった感じだ。”'99.4.25

治田城

場所いなべ市北勢町
形式平山城

大井田城

場所いなべ市大安町大井田
形式平山城
遺構土塁

萱生城

場所四日市市萱生町(暁学園)
形式平山城
遺構井戸

羽津城

場所四日市市羽津町
形式平山城
遺構土塁。公園になっている。

茂福城

画像[現況]
場所四日市市茂福町
形式・指定平城・市指定史跡。「もちぶく」と読む。
探訪2000/02/18
感想
“土壇が残るのみだが、ここでも碑と案内があった。土壇は城の北西にあたるらしい。城の中心を見ると、もうあとかたもなかった。2000.2.18”

楠城

場所四日市市楠町
形式平城
歴史楠氏の居城。城跡であることを示すように、楠一本が生えている。

西坂部城

場所四日市市
形式
探訪2006/08/06
歴史

采女城

場所四日市市采女町
形式
探訪2006/08/06
歴史

神戸城

画像[天守台太鼓櫓]
場所鈴鹿市神戸本多町
形式・指定平城・県指定史跡
遺構天守台石垣・太鼓櫓(移築)・大手門(移築)
探訪1999/05/28、2012/02/04、2021/09/06
歴史「かんべ」と読む。天正8(1580)織田信孝によって5層の天守が造られた。太鼓櫓が鈴鹿市内の蓮花寺に、大手門が四日市市の顕正寺に移築されている。同じく四日市市の旧亀山製紙室山工場にも門が移築されている(確証は無い)。
感想
”周囲の土塁を歩いてみた。説明板によると本丸の周囲を堀が巡っていたというが、西側の堀は絵図よりも小さく、全体的に埋められた部分が多い。”'99.5.28

大久保城

場所鈴鹿市大久保町
形式平城
遺構土塁・空堀
探訪1999/04/17
感想
”最初は私有地の林じゃないのかと半信半疑だったが、土塁を見て納得した。なかなか立派だ。門があったであろう入り口の部分もはっきりと分かった。市内一の土塁というのもうなずける。”'99.4.17

高岡城

場所鈴鹿市高岡町
形式平山城
探訪1999/04/17
歴史織田信長の二度の伊勢侵攻でも、落城しなかったという。
感想
”公園といっても休憩所があるだけだった。しかしそこからの眺めがよかった。180度さえぎるものがなく、鈴鹿の街を見渡せた。”'99.4.17

国府城

場所鈴鹿市国府町
形式平山城
歴史関氏の一族、国府氏の居城。

岸岡城

場所鈴鹿市岸岡町
形式平山城

沢城

場所鈴鹿市 (Google Map)
形式平城
探訪2024/06/08
歴史神戸氏が神戸城に移るまでの居城。

亀山城

画像 [多門櫓多門櫓多門櫓1(修理前) |多門櫓2(修理前) |石垣]
場所亀山市本丸町 (Google Map)
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構石垣・堀・天守台・多門櫓
探訪1986/03/30、2000/02/11、2012/12/09、2013/09/15、2022/12/21
歴史胡蝶城とも呼ばれる。岡本良勝(宗憲)築城。
かつては3層の天守があったが、寛永9年(1632)に丹波亀山城と間違われたことで解体された。以後は本丸の3重櫓が代用となった。多門櫓は正保年間(1644−1647)、天守台に建てられた。その後明治30年に外観を板張りに改められるなど旧状と異なっていたが、平成24年修理とともに復元された。この際、桟瓦葺きから本瓦葺きに、窓の数を少なく、板張りから白漆喰に改められている。平成4年には土塀が鉄筋コンクリートで復興された。近くの歴史博物館内に石坂門の一部が復元されている。
感想
“ふと亀山城の横を通り過ぎると、多門櫓がライトアップされていた。きれいだった。まさに亀山のシンボルにふさわしい。'98.5.2”
“ …もう新鮮さはないかと思ったが、いろいろ新たな発見があった。まずは発掘された石坂門だが、舗装されていた。今では案内柱があるのみだ。
 次に天守台の石垣をじっくりと観察した。高い。上までしっかりと組まれ、その上に櫓があるのは見事だ。…
 天守台隣に作られた塀だが、前に木などがあって外側からは見えない。…よく見ると土台の石垣の上に造られており、壁は縦線が入っていてあまり美しくない。
 公園を歩いた。三重櫓跡をしっかりと確認した。本丸入り口の楠門と、三重櫓も案内柱があって好感が持てた。三重櫓跡は台になっており、付近に石が庭園風に配置されていた。…
 亀山城が近くにあってよかったと思う。…何回も訪れているうちにより城の実態に近づける気がする。亀山城でさえこうなのだから、全国の城でもそうなのだろう。2000.2.11”

峯城

場所亀山市川崎町
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構土塁・空堀
探訪1999/04/17
歴史関氏の一族、峯氏の居城。
感想
”一応本丸らしき場所には茶園がある。その茶園を土塁が囲っていた。その土塁から一段高い土塁が天守台だというが、何か証拠があるのだろうか。疑いたくなるほど荒れていた。本丸の南東隅に、湧き水があった。井戸らしい。また土塁付近には石が多く含まれており、石垣か何かのものなのか気になるところだ。”'99.4.17

鹿伏兎城

画像[石垣]
場所亀山市関町加太
形式・指定山城・県指定史跡
遺構土塁、石垣、井戸
探訪1999/12/24
歴史関氏の一族、鹿伏兎氏の居城。
感想
“ 寺の隣にある加太氏の墓を見た後、山に登った。確かに道はあるのだが、細かった。…
 途中平坦地があり、見張台のように高い場所があった。その近くが主郭らしかった。近くには今も水のある井戸があった。郭入り口の脇に少しスペースがあった。当時はどんな様子だったのか気になるところだ。
 入り口付近に石垣があった。想像していたよりしっかりしていて、見事なものだった。わずかなものではあるが、ここまでのものとは知らなかった。もっと知られてもいいのではないだろうか。とりあえずWebで公開しておこう。
 これまで来た道とは反対側にも道があったので、そこを通ることにした。…こちらのほうが正しい道なのかと思ったほどだが、いきなり線路に出てしまった。”'99.12.24

関氏正法寺山荘

画像[門跡]
場所亀山市関町鷲山
形式・指定国指定史跡
探訪1999/07/15
歴史関盛貞が築いた。
感想
“発掘調査の後公園化されただけあって、看板もありすぐ見つかった。意外と建物跡の礎石は小さく、数も少なかった。ちょっとした石垣のようなものがあった。また石で構成された水路もあった。門跡と思われるものあった。落ち着いたいい遺跡だと思った。”'99.7.15

川俣城

場所亀山市関町加太板屋
歴史室町期、佐々木満喬が拠った。

津城

画像[本丸北面石垣本丸北面石垣本丸東面石垣本丸南面石垣天守台丑寅櫓台戌亥櫓台旧内堀石垣]
場所津市丸之内 (Google Map)
形式・指定平城・県指定史跡
遺構石垣・堀・天守台
探訪1986/07/13、1998/08/18、2013/02/17、2019/03/10、2024/04/17、2024/08/11
年表 1662(寛文2)大火により一部焼失
1958(昭和33)津市指定史跡となる
1958(昭和33)3層櫓復興
2005(平成17)三重県指定史跡となる
歴史織田信包によって築城され、5層の天守があったという。後に藤堂高虎によって修築されたときには、天守は建てらなかったと言われていたが、絵図にはやや古式な天守が描かれており、火災で消失したとの文献もあるため存在していたと思われる。
 藤堂高虎の改修により、本丸には3層櫓が2棟(丑寅櫓と戌亥櫓)、2層櫓が3棟(月見・太鼓・伊賀)築かれ、多聞で繋がれていた。本丸に隣接して東の丸、西の丸が設けられた。東の丸は土塁で構成され、西の丸には2層櫓1棟、枡形櫓門1棟があった。
 現在は本丸と西の丸が残り、本丸には鉄門跡に建てられた模擬3層櫓(昭和33年)がある。堀は大部分が埋め立られており、本丸東面は道路に、南側は公園になっており面影も無い。本丸は洋式庭園に、西の丸は和式庭園になっている。本丸・西の丸北側の道を歩くと、本丸の石垣と2つの3層櫓台からわずかにかつての雄姿を忍ぶことができる(本丸北面石垣)。近年、内堀石垣が発掘され、移築復元されている。北部の大手門にあたる、京口門が移築されたと伝承のある建造物が存在する。
感想
” 3層櫓はきれいになっており、石垣を登る階段も新しくなっていた。本丸を囲む石垣の上を歩いてみた。堀の方を見ると、まあまあの眺めだった。だが、全然整備されていないのが残念だ。3層櫓の跡には看板なり分かるようにしてほしいし、草の手入れもしてほしい。”'98.8.18
 ↑後日手入れされてました



上津部田城

場所津市一身田町(総合文化センターの裏)
形式平山城
遺構土塁
探訪1998/09/20
「こうづべた」と読む。にある。公園として整備されている。ただし「蛇に注意」の看板がある。
感想
”主郭が土塁で囲まれていた。道路側の土塁が復元されたものであったため、左右で対照的な雰囲気になっていた。”'98.9.20

川北城

場所津市大里川北町
形式平山城
歴史川北氏の居城。13〜14世紀の城である。住宅団地となり、小丘が公園として残されている。

栗真中山城

場所津市
形式平城
探訪2024/06/01
歴史分部氏の居城。栗真小学校の南側にあった。遺構は何もない。

伊勢上野城

画像[本丸跡に建つ展望台]
場所津市河芸町上野城屋敷 (Google Map)
形式平山城
遺構土塁
探訪1998/08/30、2024/05/19
歴史織田信包が津城の仮城として、元亀元年(1570)分部光嘉に築かせた。信包が津城に移った後、津城の出城となった。その後豊臣秀吉から1万石を受け、光嘉は独立した上野城主となった。慶長6年(1601)、加増を受け2万石になった。しかし元和5年(1619)に分部氏が近江国大溝に転封されるに及び、廃城となった。
 現在は本城山公園として整備されている。展望台があり、伊勢湾を望むことができる。展望台の2階は月に数回開かれており、模型、絵図、出土瓦などを見学することができる。
感想
”城内は結構公園化が進んでいてどこまでが当時のものなのか分からなかった。”'98.8.30

黒田城

場所津市河芸町北黒田
黒田小学校となっている。

今峯城

場所津市美里町足坂(高宮小学校の裏山)
遺構土塁
歴史今峯氏の居城。

安濃城

場所津市安濃町安濃(阿由太神社)
形式平山城
遺構土塁
探訪1999/10/03
感想
“多めの階段を登ると、土塁に囲まれた神社があった。土塁はなかなか立派で、規模も大きかった。
 池や穴があった。穴は1mぐらいの深さがあった。実際入ってみたが、地面が少し湿っているように思えた。神社を掃除している人がいて、向こうから話しかけてきた。その人としばらく話をした。…
 池も穴も後になって作られたものらしい。フェンスに囲まれた土壇は貯水槽か何かがあった跡で、櫓台でもあったらしい。話を聞いた老人は神社を預かっている人で、歴史には興味がないと言いつつも結構詳しかった。
 …麓に向かって、いくつか郭らしき場所があった。相当大きな城だったのだろう。”'99.10.3

家所城

場所津市美里町家所
画像[門跡]
指定市指定史跡
遺構土塁・石塁・堀
探訪1999/10/09
歴史「いえどこ」と読む。貞治元年(1362)、家所祐歳によって築城された。家所氏は長野氏の一族である。
感想
“ 寺の西側の道沿いに看板はあった。前回も通った道だったが、完全に見落としていた。階段を登り、墓地を通って山に入った。しかし草や木といった障害物が多く、本当にこの道でいいんだろうかと思った。何とか強引に進み、ちょっとした谷に出た。(99/10/10 02:14:21 記入)少し進むと、平坦な土地に出た。先端には石垣のある入り口らしき場所があった。
 石垣を発見したときは感動した。小さめの石で、荒く積まれていた。この平坦地がどうやら主郭らしい。土壇があり、登ってみると祠があった。木のおかげで周囲の景色は望めなかった。主郭の大手口には看板があった。城趾を示すものや、井戸跡、大手門跡、土塁があった。
 看板は割れていたりして、置くだけ置いて後は放置しているらしかった。大手門跡にも石垣があった。大きめの石であるものの、かなり低く、小規模のものだった。傍らの土塁には小石が埋もれていた。なお、主郭の北西部分にもわずかながら石垣があった。
 大手口からいくつか郭があったが、草木が多いもののまずまずの遺構だったと思う。山を下りると寺の東の道に出た。全体的に探訪のしがいがあるいい城だと思った。”'99.10.9

長野城

場所津市美里町
形式・指定山城・国指定史跡
歴史長野氏の居城。

久居陣屋

場所久居市西鷹跡町
探訪1999/10/09
歴史津藩藤堂家の分家である久居藩の陣屋である。津第2代藩主の弟高通が築いた。現在は久居中学校となっている。
感想
“ ついでで久居へ行った。久居陣屋は久居中学校になっている。西端に公園があり、久居開府の碑があった。南の方は段差があり、少しは陣屋跡の雰囲気が残っているようにも見えた。覗いただけなのでよくは知らない。公園になっているとはいえ陣屋があったことを示すものは何もないようだった。江戸時代を通じて久居の政庁があったのだから何かあってもいいとは思うが。”'99.10.9

宮山城

場所久居市戸木町
形式・指定平山城・市指定史跡
遺構土塁・空堀
歴史戸木城の出城だった。

戸木城

場所久居市戸木町
歴史「へき」と読む。戸木御所とも言われた。

木造城

場所久居市木造
形式・指定平城・市指定史跡
歴史「こつくり」と読む。北畠氏の重臣、木造氏の城。木造氏は後に織田氏に仕えた。
参考文献

霧山城

場所一志郡美杉村下多気
形式・指定山城・国指定史跡
遺構土塁
歴史北畠氏の本城。麓に北畠氏居館跡(北畠神社)があり、往時の庭園がある。

松阪城

場所松阪市殿町 (Google Map)
形式・指定平山城・国指定史跡
遺構石垣・天守台
探訪1998/08/25
歴史天正16(1588)年、蒲生氏郷によって築城された。本丸には3層の天守が建てられた。しかし荒廃にまかされ、寛永21年(1644)の台風で倒壊した。現在は石垣が残るのみだが、野面積みの石垣は見事である。
感想
”石垣は相変わらずすごかった。通路が折れ曲がっていて、石垣の構成美が見事である。あいにく石垣の修復工事中で、通路が制限されていた。
 本丸は石垣で囲まれており、なかなかよかった。何よりも感心したのは、櫓跡や門跡の案内石碑が各所に配置されていたことである。想像しやすい。これは他の城郭でもぜひ見習ってほしいところだ。”'98.8.25



松ヶ島城

場所松阪市松ヶ崎町
形式・指定平城・県指定史跡
歴史天正8年(1580)織田信雄がそれまでの細首城を改修し、松ヶ島城と改称した。かつては5層の天守がそびえていたという。松阪城が築かれたことにより廃城となった。現在は土壇が残るのみであるが、付近からは金箔の瓦片が発見されている。

阿坂城

場所松阪市大阿坂町枡形
形式・指定山城・国指定史跡
歴史白米伝説があり、白米城ともいう。北畠満雅築城。永禄12年(1569)、織田氏の南伊勢侵攻の際落城し、廃城となった。
探訪1985/10/13

田丸城

画像[天守台富士見門三の丸奥書院]
場所度会郡玉城町田丸
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構石垣・堀・天守台・富士見門・三の丸奥書院
探訪1985/10/13、2022/03/05
歴史織田信雄が築城し、三層の天守を建てた。しかし天正8年(1580)焼失した。後稲葉道通によって大修築され、このとき再建されたと思われる天守も、荒廃に任せられ江戸時代崩壊したという。
 現在残る天守台の階段は扇形であるが、近代の改変ということだ。三の丸御殿の奥書院が住宅としての移築を経た後に城内へ再移築復元されている。
探訪情報三の丸奥書院近くにある村山龍平記念館にて田丸城に関する資料展示がある(2022年時点)。



大河内城

場所松阪市大河内町
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構土塁・空堀
探訪1999/06/19
歴史「おかわち」と読む。北畠顕雅築城。織田信長の伊勢侵攻の際合戦が行われた。
感想
“石柱で馬場跡や本丸跡の案内があったのでわかりやすかった。古びた石垣も見られたが、説明には石垣が残っているとは書かれていなかった。本丸には神社のようなものがあった。名前は不明だ。そこそこの広さの平地になっており、大河内合戦400年の石碑があった。
 さらに奥に進むと空堀を隔てて西の丸がある。空堀は「まむし谷」とかいうらしいが、詳しい話は知らない。西の丸も本丸と似たような平地で、休憩所のようなものがあった。小さい石組みがあり、木が何本か生えていたのが気になるところだ。雨で滑りやすかったが、念願の大河内城を散策できて満足した。御所だったことや、激しい合戦があったとは思えないほど静かな所だった。”'99.6.19

三瀬砦

画像[土塁]
場所大台町下三瀬
形式・指定県指定史跡
遺構土塁


三重県(伊勢伊賀志摩紀伊


伊賀上野城

画像[天守高石垣筒井天守跡]
場所伊賀市丸之内 (Google Map)
形式・指定平山城・国指定史跡
遺構石垣・堀・武具蔵
探訪1986/04/06、1996/03/22、2019/01/27
歴史天正13年(1585)、筒井氏によって築城され、3層の天守があった。後に慶長16年(1611)藤堂高虎が大坂に対する備えとして改築し、高石垣を築いた。本丸西の高石垣は大阪城に次いで日本で2番目に高いという。5層の天守が建てられるはずだったが、完成間近であった慶長17年、大暴風によって倒壊した。昭和10年、木造で天守・小天守が復興された。白鳳城という別名がある。
感想
“上野城は遠くからでも天守閣がよく見える。'96.3.22”

上野市の南側に名阪国道、北側に国道163号、国道25号が走っているが、断然北側の国道のほうがよく見える。



福地城

画像[石垣]
場所伊賀市伊賀町柘植町(芭蕉公園)
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構石垣・土塁・空堀
探訪2019/01/27

丸山城

場所伊賀市下神戸
形式山城
遺構天守台
探訪1999/10/23
歴史天守台には野面積みの石垣があったらしいが、持ち去られて今はない。
感想
“天守台の南側には平坦な郭らしき場所があり、供養塔があった。天守台中心部には城址碑があり、周囲を土塁が巡っていた。
 結構大きな碑で、大正時代建立ということだ。石垣の上に建っており、もしかすると天守台の石垣の石を使用しているのかもしれない。昔は野面積みの天守台があったが、鉄道建設のために持ち去られたという。
 後で確認すると、天守台には南北両側に付櫓台があったようだ。残念ながら入り口のある南側しか確認できなかった。反対側は木が生い茂っており、見通しが悪かった。付櫓台には階段の跡らしき石があった。注意深く見れば石垣の石のようにも見える石もあった。しかし全体的にほとんどといっていいほど石は持ち去られたようだ。(99/10/25 12:42:27 記入)
 東側には石が積まれたような感じの場所があった。井戸なのかもしれない。天守台周囲は荒れていて1周することはあきらめた。看板もあることはあったがばらばらになっていて全然管理されていない。せっかくの重要な城なのだから市はもっと力を入れるべきではないか。
 道に沿って山を降りていくと、出丸を経て麓に降りた。滝川氏の墓らしきものがあった。”'99.10.23

名張陣屋

画像[太鼓門]
場所名張市丸之内 (Google Map)
指定県指定史跡
遺構殿館、太鼓門
探訪2012/03/01
歴史名張城があった場所に、寛永13年(1636)藤堂高虎の養子である高吉が屋敷を構えた。現在のこるのは、宝永7年(1710)に焼失した後再建された屋敷の一部分である。太鼓門は屋敷隣の神社に移築されている。
名張藤堂氏は初代高吉が2万石、後1万5千石の津藤堂藩の家臣の格である。従って名張市では「近世上級武家屋敷」としている。なお、屋敷の修復の際に一部発掘され、昔の城の石垣が発見されたという。

田矢伊予守城

画像[石垣]
場所伊賀市阿山町川合
遺構土塁・石垣

百地丹波城

場所伊賀市喰代
遺構土塁・空堀


三重県(伊勢伊賀志摩紀伊


鳥羽城

画像[本丸石垣]
場所鳥羽市
形式・指定平山城・県指定史跡
遺構石垣
探訪1997/08/28、2023/05/30
歴史九鬼嘉隆が築き、内藤忠重によって近世城郭として完成された。海に面した海城であり、完成時は3層の天守があった。天守は明治まで残っており、県下で唯一天守と称す建造物が残っていたことになる。廃藩置県時の報告によれば、天守以外に2重櫓5、一重櫓7があった。
現在はあまり整備されておらず、残念。鳥羽市としては観光スポットに事欠かないため、おろそかになっているのでは…。
感想
”城山公園という案内があるだけで、城関係の案内は見つけられなかった。石垣らしきものがあったがどこまでが本物か分からなかったし、不親切さが目立った。
 城に対する理解が薄いからだろう。何しろ鳥羽とくれば観光施設が多くある。城が等閑にされても仕方ない。”'97.8.28

田城城

場所鳥羽市岩倉町字城山(九鬼神社)
指定市指定史跡
歴史九鬼泰隆築城。


三重県(伊勢伊賀志摩紀伊


鵜殿城

画像[土塁]
場所南牟婁郡鵜殿村
形式平山城
遺構土塁
探訪1999/10/17
歴史鵜殿氏の居城。
感想
“郭は卵形をしており、土塁で囲まれている。良好に残っているといえるだろう。苔むす石が見られた。また新設された見晴らし台があり、熊野川の河口や工場がよく見えた。”'99.10.17

京城

場所南牟婁郡紀宝町大里
形式平山城
「みやこ」と読む。

赤木城

画像[石垣1石垣2主郭入口]
場所熊野市紀和町赤木 (Google Map)
指定国指定史跡
遺構石垣
歴史天正17年(1589)頃、藤堂高虎によって築城されたといわれる(明確ではない)。平成7年度から平成15年度までの間で発掘調査が行われ、石垣の補完や積み直しが行われ、整備された。
探訪1999/10/17、2019/06/23、2019/12/11、2021/02/14
感想
“…進路に沿って進むと石垣が見えてきた。見上げる形になり、いかにも城といったいい雰囲気だった。さらに進んで行くと主郭付近の素晴らしい石垣を目の当たりにした。
 主郭の手前は発掘調査中で、テントがあったり土がむき出しになった場所があった。できるものなら調査に参加したいほどこの城が気に入った。まずは主郭に入った。入り口は枡形で、両脇に石垣があって威厳に満ちていた。故意なのか、大きな石を使っている部分もあった。
 主郭内はまあまあ広く、木が生えていたもののなかなか良かった。石が転がっていたりした。枡形あたりの石垣は幅が狭く、越前大野城を思い出した。場所が取れなかったからなのか、古い手法なのか。
 次は西側の郭へ行った。…礎石はあまり整然と並んでいる風でもなく、かつてあった建物を想像するのは難しかった。想像といえば主郭はどんな様子だったのだろうか。全然想像がつかない。どのような種類の建物か、どんな配置か、復元図があれば見てみたいものだ。
 さて西の郭は裏込石があまりなく、積み方も雑であったため崩れていたということだ。…結構きれいに積まれていたが、これは積み直した結果だろう。…
 今度は主郭の周囲を見学した。横矢掛かりは、部分によっては出っ張りが小さく、またある部分では石が崩れかかっていた。算木積みは確認するのを忘れた。あまり算木積みのようには見えなかったが。
 主郭の東側は崩れた石垣があり、ここも発掘調査中のようだった。発掘調査が終わったらどんな風になるのだろう。ぜひもう一度訪れたい。何といっても石垣が非常に良い。どす黒く、苔むした迫力ある石垣だ。鮮やかな芝生との対照もおもしろい。斜面がでこぼこになっているのも古さを感じさせる。”'99.10.17
参考文献
  • 史跡赤木城跡保存整備事業報告,2005,紀和町教育委員会

大栗須城

画像[石垣]
場所熊野市大栗須
形式山城
遺構石垣
探訪2019/12/11
感想
入口が分からず行けそうなところから登った。麓には墓地があり、裏手に石塔があった。そのあたりから上を目指して道なき道を進んだ。途中不安になるほど道が無かったが、上があるうちは登った。西側から登ったことになるが、曲輪にたどり着き、越えたあたりで石垣に遭遇し、感動した。確実に区切られており、観察したあとさらに奥(主郭を越えて)に進むと、同じように曲輪を越えて石垣があった。東側が入口にあたるのか、二重に石垣で防御線が作られているようである。このような山中に、恐らく長年ひっそりと存在し続けていることに驚き感動した。帰りは南側の崖を強引に下りた。黒い影が2つ東側に走っていった。猪か猿と思われる。それ以外は幸い生物には遭遇しなかった。季節が良かったのか。ともかく強引に集落に脱出できた。惜しいことに、登山道が整備されていないと思われるので、行きやすくすれば赤木城とセットで(こちらはより興味のある人向けとなるが)まわれるコースとなるのではないか。'20.01.01

小栗須堂ケ谷城

場所熊野市小栗須
探訪2019/12/11
感想
慈雲寺の墓地すぐ隣にある。慈雲寺自体が高台にあり、墓地はさらに高い場所にある。階段を上らなければならず、墓参りも大変そうだ。※ただ、裏手にも道があったので別の入り口があるのかもしれない。石垣については極めて部分的なものであった。'20.01.01

小栗須城

場所熊野市小栗須
形式山城
探訪2019/12/11
感想
慈雲寺の墓地より、堂ヶ谷城とは反対側、北に向かう。貯水タンクを右手に進み、道があるのか無いのか不明なほどのところを進み、行きつく先が主郭のようである。木々に覆われて眺望はきかないが、道路の気配があるので小山の先端近くに位置しているようだ。土塁は明確に確認でき、比較的良好に残っているように思われた。'20.01.01


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