常陸・房総半島


データ

期間:1999年3月25日〜28日

交通手段:自動車(レックス)

ルート:三重県〜茨城県〜千葉県〜三重県

観光地:土浦城、笠間城、水戸城、館山城、大多喜城、久留里城、小田原城


3月25日

 10時半頃起床。昼過ぎに床屋へ行って散髪した。大学へ行くまで通っていた床屋なのだが、何一つ変わっていないように思えた。主人は別に驚きもせず久しぶりだとか言っていた。

 出発は少々遅れ、15時前頃になった。目的地はおおまかに水戸と房総半島だ。東京の道路も少しは興味があった。国道23号で北上し、名古屋を抜けて豊橋で国道1号に入った。そのまま沼津まで走ったのだが、混雑していたりであまりおもしろい道ではなかった。

 掛川城がライトアップされていたので、少し寄り道をした。掛川城は10年以上ぶりだが、かなり整備されているように感じた。とはいえかなり月日が経っているので前はどうだったかほとんど憶えていない。ふと清洲城を思い出した。雰囲気が何となく似ているような気がした。

 掛川城についてもう少し書く。天守は真っ白だった。浮いているように思えた。太鼓櫓と御殿が残っているのだが、それらは下見板張りである。天守は白亜だったのか、少々気になるところだ。あと気がついたところでは、太鼓櫓がきれいになっていた。

 沼津からは国道246号に入った。箱根峠が混むと聞いていたからだ。そのまま東京まで走った。かなり眠かったものの、夜でないと空いていないそうなので、我慢して走った。渋谷あたりから皇居、新宿を通って環状7で国道6号を目指した。

 東京の道で一番驚いたのは、タクシーの多さだ。タクシーを拾う現場を何度も目撃した。それを見ていかにも東京だなあという感想を持った。信号で止まると、両脇や後ろにタクシーがいるのは奇妙な感じだった。また運転が乱暴だ。かなり怖かった。

 東京ではタクシーが目立ったが、東京に入るまではトラックが目立った。これがまた黒煙がすさまじく、非常に不快だった。旅をするたびに思うが、トラックは何とかならないだろうか。

 鳩ヶ谷あたりに道の駅があったので、そこで寝た。3時半頃だったので、半日運転していたことになる。さすがに徹夜は無理だった。(99/03/26 23:47:50 記入)

3月26日

 7時半頃起床。土浦経由で水戸へ行くつもりだったが、経路が問題だ。何とかして国道6号へ行かねばならない。今にしてみると、こういうときこそカーナビが便利だ。機械に頼らないのもまたそれなりにおもしろいが。

 国道298号でしばらく走り、詳細は忘れたがとにかく国道6号に入った。左手に牛久沼が見えたのは憶えている。幼少の頃何かの本で見たことがあるが、牛になった人が溺れたとかなんとかいう伝説があるようだ。沼にしてはかなり大きい。ふと沼と湖の違いは何なのか考えてしまった。ちょっと辞典で調べたら、厳密には区別がないそうだ。

 土浦城は国道354号沿いにある。たやすく見つけられたものの、駐車場を探すのには苦労した。人に聞いて博物館の駐車場に停めるのを知った。だがそれは結構狭いうえに見つけにくい場所にあった。

 城内には櫓2つに櫓門1つなどがあった。櫓門は昔から残っている建造物だ。西櫓は昭和24年の台風の被害で解体された後、平成3年に復元が行われた。1階屋根が大きく、今まで見てきた櫓とは屋根のバランスが違うように思えた。

 東櫓は平成10年に復元された。内部は公開されており、博物館と共通料金となっており、105円で入館できる。東櫓や西櫓の復元の様子がビデオで見ることができた。東櫓のほうを見たのだが、なかなか詳しく記録されていた。

 東櫓は、本来の位置とは少しずらして建てられているそうだ。またコンクリートの土台の上に建てられている。外から見ると、少々コンクリートの部分が見えている。新潟県の高田城よりはましだが、ちょっとがっかりする面である。復元とは現代においてはなかなか難しいものなのだろうか。少し考えさせられた。

 本丸を土塁が囲っていたのだが、これも櫓の復元に合わせ整地されていた。城郭完成時に近づいたのかもしれないが、趣を求める者にとっては残念でしかない。その土塁は現代新たに造られたものに違いないのだから。

 石岡市で道が分かれている。そのまま国道6号で北上すると水戸だが、国道355号では笠間に行ける。今回の旅では全然下調べをしていなかったが、ふと昔の記憶がよみがえった。「笠間城」。あったような気がする。櫓の写真を見たことがあるような。自然と笠間に向かっていた。

 笠間に着いたはいいが、どこに城があるのか全然分からない。駅で案内図を得、笠間城の所在を知った。駅でついでにラーメンを食べた。笠間には稲荷があるので、いなりラーメンにした。ちょっと食べたいものとは違っていたので、いまいちだった。レジで物珍しそうに見られたので、ちょっと恥ずかしかった。何しろ風呂には入っていないので髪は整っていないし、寝不足(4時間ぐらいしか寝れなかった)で目は疲れきっている。

 意外なことに、笠間城は山城だった。何回か周囲を回り、大手門前の駐車場に停めた。観光の目玉になっていない城郭は、なかなか見つけづらいものだ。大手門跡付近にも少しは石垣があった。本丸へ向かう途中には八幡台櫓跡(名称自信なし)があった。なかなか高い土塁だった。礎石のようなものもあった。

笠間城天主台 天主台へ登る階段に到達すると、目を見張るような見事な石垣が目前に現れた。これにはかなり感動した。また頂上には佐志能神社があったのだが、なかなかすごいところに建っていると思った。周囲には大きな石がごろごろしている。神社の裏には子供の遊び場になりそうな(でもかなり危険)石の溜まり場になっていた。

 笠間城は意外な収穫だった。土塁あり、石垣あり(いつ造られたものかは分からないが…)。まさに土浦城とは対照的だ。あ、今地図を見て気がついたが、近くにスポーツカーミュージアムがあったみたいだ。少々残念だ。今回の旅は城しか行っていないような感じなので、気分転換には良かったかもしれない。

 水戸へは国道50号で行った。水戸は水戸城があるだけでなく幕末でも高名だ。歴史館や徳川慶喜の展示館があったのだが、看板が分かりにくかった。今回の旅ではこれが目立った。目的地を探すのに一苦労だ。

 偕楽園にも行きたかったのだが、どこに停めればいいのか分かりづらかった。周辺をさまよったあげく、茨城県立歴史館へ行った。結構広い敷地で、のんびりできそうだった。しかしもう夕方になっており、焦りがあった。

 水戸城もまた分かりづらかった。そこそこ詳細な地図はあったが、弘道館が県庁の隣であることぐらいしか分からなかった。その弘道館は閉まっているようだった。残念だ。本丸に水戸一高があることを何とか突き止めた。

 緑色の屋根の、大きく立派な門があった。水戸城の遺構だ。土塁らしきものが高校の周囲に見られた。しかしなにしろ高校の建物があり、中には入りづらかった。三階櫓の跡すらも分からなかった。城内に学校等の施設を設けている場合は多い。だがそれも別の場所に移転して、その跡を公園にする場合も多い。水戸ではそれが行われていないだけのことだ。

 城の周囲を走ると、土塁や堀が見られ、かつての城郭を少しは忍ぶことができた。街の中心でもあることからのんびりできなかったのが残念でならない。また、せっかくの水戸なのにほとんど雰囲気を味わうことができなかったのも惜しい。

 大洗町から国道51号で南下した。国道124号でさらに南下して、銚子へ行った。霞ヶ浦を見てみたかったのだが、見られなかった。ちょっと悔しい。銚子に入る前に利根川を渡ったのだが、既に暗くなっており、景色が楽しめなかったのも悔しい。しかしかなり幅が広かったのはかろうじて分かった。

 国道126号でしばらく走り、途中九十九里浜近くの道路に入った。すぐ近くに海があるのが分かったが、こう暗くてはよく分からない。時間が合えば九十九里道路を走ったのだが。付近で泊まり、朝景色を楽しみながら走ろうかと考えていたが、まだ余力が残っていたためさらに南下することにした。どうせ予定のない旅だ。走りたいだけ走ればいい。

 国道128号で勝浦を過ぎ、鴨川まで達した。風呂に入りたかったが、探すのが下手だ。またビジネスホテルを探したもののやはり見つからなかった。結局鴨川近くの道の駅で寝ることにした。(99/03/29 16:11:04 記入)

3月27日

 6時半頃起床。前日が11時か12時頃寝たので、少しは睡眠を取れた。海を左手に見たりして南下を続けた。余裕がありそうだったので、国道410号で房総半島南端を走った。さすがに州崎までは行かず、そのまま国道で館山に入った。

 「そういえば館山城ってあったような…」。復興天守の写真が思い浮かんだ。地図にも城山公園が載っている。どうせ復興天守なのだから、たいして期待はなかった。あるからには寄る、それだけだった。

 館山の詳細な地図がなかったため、やはりここでも少し探した。だがてき とうに走っていると天守が見えてきた。少し市街地から離れているおかげで、そ こそこ楽に見つかった。麓から見ると、シンボルになりそうな綺麗な建物だと思っ た。

館山城天守

 本丸に登る途中に孔雀園があった。(99/03/29 16:19:55 記入)ちょっと嬉しいおまけだ。おまけどころか、かなり見入ってしまった。孔雀以外にも猿2匹や、様々な鳥がいた。一番かわいかったのはテンジクネズミだ。最初は耳の短いウサギかと思っていた。ちょうど食事の時間で、10数匹のネズミが群がって餌を食べているのがおもしろかった。

 アヒルのような鳥が警戒心もなく寝ていたのもよかった。ちゃんと首をたたんで寝ていた。ウサギも檻にいたが、「かみつきますので指を入れないでください」と書いてあったように、怖い印象だった。息を吹きかけてやったらにらまれた。

 結構孔雀園で時間をつぶしたものの、天守の開館時間である9時には10分ほど早かった。掃除をしていた人の勧めに従って梅園を見に行ったが、全然咲いていなかった。ついでに里見八犬伝のモデルになったと言われる8人の墓にも行った。

 館山市立博物館分館である天守では、南総里見八犬伝関連の展示が行われていた。そういえば里見氏が安房にいたなあと思い出した。八犬伝といえば、漫画「戦国甲子園」でおなじみだった。八犬伝関連の本が展示してあったが、戦国甲子園はなかった。それは納得がいかない。麻雀の漫画はあったのに。ちなみに戦国甲子園は野球漫画だ。

 里見氏などの展示は、近くにある博物館本館で行われていた。なかなか興味深いのは、里見氏の最期だ。末代の忠義が山陰に移封され、領地を取り上げられたうえに失意のうちに没したそうだ。初めて知った事実だ。

 おもしろかったのは、コンピュータの歴史クイズだ。いかにも発色数の少なそうなディスプレイに、処理能力も一昔前のコンピュータだった。いったい何年前のものなのだろう。文字の表示も遅かった。合成音声で話してくれるのだが、かなりぎこちなかった。こんなコンピュータがまだ現役で動いているのはもはや貴重といえるかもしれない。

 館山城はまあまあ整備の手が入っているものの、自分としては好感触だった。あまり整備されていても風情がないだけなのだが、館山城は孔雀園があったことや、そこそこ個性のある天守、墓等見所は多い。早朝でいい散歩になったこともよかった。また眺望もまずまずだった。

 眺望といえば米子城にはかなわないように思う。建物から景色を見ると、どうしても周囲を遮る壁や屋根が見えてしまう。米子城は天守台からの景色で周囲には何もないため、素晴らしい景色が楽しめる。

 ちょっと話がそれてしまった。国道127号で北上する。次の目的地は久留里城だ。里見氏の本城だったことは知らなかったが、10年以上前に見た本に復興天守が載っていたことから憶えていた。(99/03/29 23:17:10 記入)君津市にあることも少々憶えていたが、まさか内陸部にあるとは思っていなかった。山城であることも。

 よくは憶えていないが、多分国道465号から国道410号で行ったのだろう。やはり詳細な地図がないため、探さなければならなかった。館山城のように、麓からは天守が見えなかった。もうちょっと宣伝(看板設置)に力を入れてくれると助かるのだが。

 頂上までは少々歩かなければならない。だが土塁はまずまず見応えがあったと思う。復興天守に隣接して、天守台が残されている。かなりきれいに残っているが、果たしていつ頃整えられたのだろうか。あまりにきれいだとおもしろくないのは自分だけだろうか。

 天守や資料館が無料なのは嬉しかった。全体的に千葉付近の城は入場料が安いように思えた。建造物が現存しているような、目玉となる城がないからだろうか。しかし館山、久留里、そして次に行く大多喜と、復興天守とはいえなかなか個性があっていいと思う。岐阜県の城は大垣城に似せたものが多い、ということと比較しての話だが。

 大喜多城へは当初寄るつもりはなかった。だが地理的に近い。せっかくだからということで寄っていくことにした。途中の大糸川温泉(名称自信なし)で入浴した。今回の旅で唯一の入浴だ。1人旅だとどうしても食事と風呂がおろそかになってしまう。

 ちなみに食事はコンビニで買い、運転しながら済ませることが多い。コンビニは目立つから余裕を持って入れるし、駐車場もたいていある。もはや運転に慣れていないというより、急な判断ができないことが、なかなか食堂に入れない理由だ。

 話は戻るが、その温泉はコーラ色だった。あるいは消毒液っぽかった。そ れはいいとして、この温泉というより保養所から親戚に電話をした。予告なしの 電話だったためちょっと驚いていたようだった。まだ泊めてもらうか決めかねて いたが、そろそろ水平に寝たかったので泊めてもらうことにした。

 さて次は大多喜城だ。やはり経路をはっきりとは憶えていないが、多分国道465号で行ったのだろう。大多喜城には天守(三階櫓か?)が再建されている。今案内を見ると、天守や三階櫓とは書いていない。「千葉県立総南博物館」とある。確かに石垣を新たに造り、その上に復興したのだから正しいことだ。内部にはプリクラがあったような気がした(どこかの城にあったことは憶えているが、どこだったかは忘れた)。天守までの道は、少しではあるが城の面影を残しているように思えた。

 房総半島を1周する予定だったが、久留里や大多喜に寄ったことで半島をえぐる感じになってしまった。やはり憶えていないが多分国道297号から409号で木更津に行ったのだと思う。アクアラインとの分岐に来たのでどんな橋か見てみようと思ったが、あやうく入ってしまうところだった。幸い料金所でUターンできたので助かった。看板には本当に苦労させられる。

 ここからは国道16号で北上だ。道も広く、いかにも工業地といった風景だった。なかなか快適なドライブだった。親戚の家に行くには時間が余ると思ったので、佐倉へ寄ることにした。ラジオで佐倉城の紹介をしていたのを聴いていたからだ。

 だが佐倉へ行くまでが苦労した。かなりの渋滞だった。経路は忘れてしまった。だが、佐倉に着いたときには既に暗くなっており、公園を探したのだが見つからなかった。これはかなり悔しい。せっかく渋滞をがまんして来たというのに。またこの渋滞のおかげで、当初驚異の燃費を記録するというペースのガソリン消費量だったにも関わらず、20キロ/リットルを切ってしまった。

 悔しかったが、仕方ない。親戚の家まで行った。途中ファミリーレストランで夕食を取ったが、ファミリーレストランはあまり1人では入らないほうがいいと思った。雰囲気的に。

 結局親戚の家には23時頃着いた。親戚は軽でやってきたことに驚いていた。それにしても10年以上ぶりの家だ。ほとんど憶えていない。東京の近くに親戚の家があるのは便利かも、と思った。地位が上がれば(??)東京に行く機会も増えるだろう。

 ともかく久々の布団だった。くたくたに疲れており、無念なことに楽しみにしていたテレビ番組さえ見ずに寝てしまった。ああ悔しい。(99/03/30 00:03:20 記入)

3月28日

 もうここからは帰路だ。帰り道に小田原城へ寄っていくつもりでいた。国道357号に出て湾岸を走った。レインボーブリッジはなかなかおもしろかった。てきとうに国道15号や1号で走った。ちょっと心残りだったのは高速湾岸線を走らなかったことだ。多分景色も良く、道も良く、空いていたんだと思う。特に空港付近を走ってみたかった。使わなかった理由は、「有料道路を走らない旅にする」といういつのまにかできた目標があったからだ。

 意外と東京、川崎、横浜と空いていた。小田原までの道で脇に松の木が生えていたりして、いかにも東海道といった風情があったのが嬉しかった。大磯町で「大磯城山(おおいそじょうやま)公園」という看板に遭遇した。トイレ休憩が欲しかったこともあり、思わず寄っていった。だがどういう城なのかあまり分からなかった。城がなかったのではないかとすら思えた。今案内を見てみると、室町時代に小磯城があったらしい。

 だまされたと思いつつ公園を出た。無事に小田原に着き、小田原城も場所だけはすぐ分かった。しかし駐車場が分からない。付近は満車の駐車場が多かった。何とか城内の臨時駐車場を発見し、駐車できた。

 休日ということもあり、昼でもあったのでかなりのにぎわいだった。著名な城だから観光の名所でもあるのだろう。自分としては逆におもしろくなくなっていた。誰かと行くのならいいだろうが、1人旅にはちょっとつらいものがある。

 常磐木門をくぐり、本丸に入る。そこは動物園になっていた。象がいたのには驚いた。だがのんびりした仕草には心がなごんだ。他にはアライグマがいた。ラスカルだ(ってただのアライグマだが)。しかし同じ所を行ったりきたりする動作を繰り返しており、かわいそうに思えた。人目にさらされて…。

 さて天守閣だ。あまり憶えていない。ただ外から見るとなかなかの迫力だった。いかにも「城」という感じだ。それよりも憶えているのは常磐木門内で展示されていた城の模型だ。何かのコンクールのようなものがあり、その入賞作品だった。数多くの城内の展示を見てきたが、こういうのは初めてだ。

 しかし模型というのはなかなか精巧に作るのは難しい。プロではないのだろうからなおさらだ。一番失望したのは、金賞の作品で小田原城と称しながら平成再建の大阪城天守のプラモを使っていたことだった。スケール的に小さく、細かい部分を省略したのだろうが、分かる人にはばれるだけに、残念なところだ。他にもスケールの大きい作品もあったものの屋根や壁の大きさが整っていない部分が目立っていた。

 ちょっと注文をつけすぎたか。小田原城では、それまでの常陸・千葉の城がよかっただけにがっかりする点が多かった。銅門(あかがねもん)が復原されていたのだが、平成9年と新しくかなり浮いていた。特に石垣である。明らかにここだけ違う色だった。

 城内には隅櫓も再建されている。説明を読むと、関東大震災で石垣もろとも堀に落ち、規模を小さくして建てられたそうだ。ちょっと残念な話だ。これらのように、小田原城ではあまり感動することもなかった。

 小田原からどうするか。当初は急いで走り、駿府城、時間が有れば掛川城と訪れるつもりだった。だが突如石垣山城という選択肢が持ち上がった。豊臣秀吉が小田原攻めをする際に築いた城だ。なかなか魅力的だ。

 

 駿府城と石垣山城を天秤にかけ、石垣山城のほうに傾いた。だが結局はよくある「欲張り」にすぎなかった。これまで欲張ったために痛い目にあってきた。今回もそうだった。ちょっとした勘違いで、箱根ターンパイクに入ってしまった。有料道路だ。この道でしか石垣山には行けないものと思いこんでしまっていた。

 まずまずの道路だったのだが、既に燃料が少なくなっていた。仕方なくとろとろと走っていた。すごく悔しい。ところどころ雪が残っていて、かなり上に登ったときには霧がたちこめているような感じだった。

 ドライブインで現在地を確認しようと思った。かなり寒かった。道を聞いてもはっきりとは確認しなかったおかげで、てきとうに道を決めて山を下りることになってしまった。ちなみにここで吸盤付きのマスコットを買った。買うかどうか迷ったが、迷うくらいなら買え!と決心した。役に立つかどうかはこれからの自分次第だ。

 県道で山を下りたのだが、これがまた長かった。かなり不安になった。このまま全然違う方向に行ってしまうのではないか。だがこのまま流れに任せることにした。そのときはそのときだ。今回の旅はそういうものだ。

 結局は湯河原温泉のほうに出てしまった。何とか燃料はもった。さてどうするか。来た道を戻るのは嫌だった。熱海から国道1号のほうへ戻るか。それとも北へ向かい小田原で国道1号に入るか。熱海に傾いていたものの、「混まないだろう」とひらめきで北上することにした。

 これがまたはずれで、混雑はひどかった。しかも看板の不具合で走る予定のない有料道路を走ってしまった。正しい判断のできない自分が悪いのか、不親切な看板が悪いのか。ナビがあれば、と強く思ったものだった。

 かなり時間をくってしまい、夕方になってもまだ小田原だった。国道1号を走っていると、石垣山城へ行く道を発見した。せっかくだからと、これまた分かりにくい角を苦労して入った。しかーし!工事中で行けなかった。とことんついてない。ああ!ナビがあればこんなことはなかったのだ!もちろん工事中なのは分からないだろうが、少なくともアホみたいな回り道をすることはなかっただろう。

 残念だ。石垣山城は近くに来たからには行きたかった。ちょっとした欲張りのおかげでかなりの時間を失ってしまった。しかしもう家に帰ってしまいたかった。東名高速を使うことも考えたが、国道1号でもいいだろうということになった。

 箱根峠を越えたが、なかなかおもしろい道だった。あとはもうひたすらバイパスも使わず国道1号を走り続けた。富士市あたりで富士山が見えた。さすが日本一高い山だけあり、遠くからでも迫力があった。あとはどのあたりだったか忘れたが、工場地帯の景色も物珍しかった。

 行きとは違い、知立あたりで国道23号に入った。かなり眠くなり、車線をはみ出しそうになったり中央分離帯にあたりそうになったりした。かなり危なかったと思う。一歩間違えば、ってやつだ。少し休憩したら、楽になった。家には1時か2時頃着いた。

 とにかく関東へ行くまでと関東から帰ってくるまでが長かった。さすがに今の車ではつらいものがある。今度旅に行くときは車を変えたいものだ。もちろん今の車でも楽しいことは楽しいのだが、旅となると快適さを求めてしまう。

 今回の旅ではクーラ・シェイカーの「ペザンツ、ピッグス、アンド・アストロノウツ」を聴きまくった。かなり気に入った。また一応傷心旅行であり、一時期は旅行に行くことすらどうでもいいことのように思えていた。だがもうすっかり立ち直れたように思う。果たして成長したのか。少なくとも1つの経験をしたわけだが、そこからまた一歩を踏み出すことが肝心だ。(99/03/31 00:15:10 記入)


おまけ

3月29日

 11時頃起床。車を拭いて綺麗にした。スーパーチャージャーがついていておもしろい車ではあるが、さすがにあきてもくる。パワステがない。パワーウインドウではない。集中ドアロックではない。そしてカーナビがない…。車を買いたいものの、希少車だからなかなか見つからないだろう。とはいえ次の旅行までに買えればいいと思っているので焦りはない。


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