交通手段:自動車
ルート:茨木ー鳥取ー萩ー下関ー茨木
この日は、3限目に補講があったので12時34分発のバスに乗るつもりで起きた。しかし、土曜日のダイヤだったのでその時刻のバスはなく、13時7分発に乗って学校に行った。遅刻である。教室に入るともう講義は始まっていた。けれども堂々と前から2番目の席に座った。
講義が終わってからは図書室前で新聞を読み、次にワークステーションを操作してから帰った。バスから降り、銀行の残高を確認した。奨学金はまだ入っていなかった。一体どうしたのだろう。
夜、シャワーを浴びているときに電話が鳴った。裸のまま出てみると、姉だっ た。Tさんと旅行に行く件で、割り勘にしろということであった。裸であったので、少し話をしてすぐにきった。
服を着てからまた電話がかかってきた。姉からで、Tさんは予定より遅れるという。その他に、また少し話をした。成績はどうだったとか、僕の声が明るくなっただとか、そんな話をしていた。
9時半か10時頃、Tさんが車で来た。毛布を車に積んでから旅行に出発した。 彼は「先は長いからのんびり行こう」と言った。話をしながら、車で進んでいっ た。1時頃だったかは忘れたが、どこかの山を走っていて彼が眠くなってきたと いうので、運転を代わって自分が運転した。代わってからすぐには慣れなくてTさんも寝ずに道を見ていてくれた。9号線に入ってしばらくすると、彼は寝入った。そのころには僕も運転に慣れてきていた。
途中、犬の死骸が道の真ん中にあり、気づくのが遅れて完全に避けることができず、ひいてしまったかもしれない。僕は悲鳴のような声を出したが、隣は寝たままだった。
時速は70から80ぐらいを維持し、車の少ない9号線を走り続けた。鳥取砂丘に行く道の看板があったので、このとき鳥取には行っただろう。2時半頃だったか、彼が起きた。どこだったかは忘れたが、運転を代わり、僕は寝ようとした。しかし車で寝るのに慣れていないせいか、なかなか寝れなかった。4時頃だったか、国道沿いの休憩所に車を止め、そこで寝ることになった。正確な場所は思い出せない。とにかくここでこの日は終わりとする。
3日分書くつもりだったが、次の日は書くことが多いので明日(4月30日)にまわすことにする。とにかく28日と29日は書くことが多い。
さて、車の中で起き、トイレで顔を洗い、Tさんの運転で出発した。どこだったかは忘れたが、途中で運転を交代した。このときだったか、まともに信号無視をしてしまった。車が来ていなかったからよかったものの、免許をとって以来初めてのことだった。
朝食はパンを買うことにし、店に止まった。車の中で食事をとり、引き続き自分が運転をした。車を動かすとき、なんとも情けないことに、ドアを閉め忘れていた。彼は「ドンマイドンマイ」と言っていた。
記憶がはっきりしない。とにかく9号線で海沿いを走っていて、景色がよかったのを憶えている。左手に山陰本線の線路、右手に日本海。運転がまだ未熟なため、景色をじっくり見れなかったのが残念であった。
確か萩に着くまでにTさんと運転を代わったと思う。萩で最初に向かったのは、萩城だった。昼頃、最初の目的地萩城着。車を止め、城内に入った。入場料が必要だった。城内に神社があり、参拝してから歩いて茶室に入った。縁側に座り、しばらくたたずんだ。周りは落ちついた感じで、いつまでもぼんやりしたいような場所だった。写真を撮った。
次に、天守台に登った。明治まで5層の天守閣があったところだ。ここでも写真を撮った。確か知らない人に頼んで2人で写してもらった。天守台を降り、また歩き、裏が階段になっている石垣を登った。そこから天守台を見ると、見事な勾配を描いていた。2人で感心し、少々話した。それから城を出た。
城を出て向かったのは、長屋である。城内の入場券はここにも入れるようになっているためである。長屋というだけあって、横に長い建物だった。建物には入れなかったが、外から中に展示されているものを見た。展示されていたのは、かご・・・ぐらいしか思い出せない。かごは、なかなか大きいなぁという感想を憶えている。
長屋を出て、萩史料館に行った。ここでは維新志士の書や武器や昔の金や教科書があった。なかでも印象に残ったのは、高杉晋作が周布政之助からもらった鎧の「討死」の文字である。ここに来る前にテレビかなんかで見たことがあり、実際に見れて嬉しかった。この後もこういう体験をすることになる。
萩史料館を出て近くにあった食堂に入り、昼食をとった。僕はうどん、Tさんはそばだった。ここではカメラの話をした。Tさんは昔カメラに凝っていて、僕よりも詳しかった。
萩城を出たのは2時頃だっただろうか。彼の運転で松下村塾に向かった。松下村塾は、人でにぎわっていた。僕は感激していた。ようやく松下村塾に来ることができた。想像よりは異なっていたけれども。僕の想像していたのは、もっと山のほうにあるもので、静かな雰囲気のあるところだった。実際は想像していたよりも小さかった。ここでまた知らない人に頼んで2人で写真を撮った。
松陰神社に参拝したとき、僕はこう誓った。「革命家になってからまた来たい」。松陰神社の絵馬は、受験合格のものや就職に関するものが多くかかっていた。北海道から来ている人のものもあった。
4時半までに秋吉台に行かなければならないので、3時頃出発した。ここも彼に運転を任せた。4時過ぎだっただろうか。無事秋吉台に着いた。ここで僕はその地形に驚いた。いわゆるカルストで、すごいの一言につきる。詳しい描写は止めておく。秋吉洞はかなりよかった。・・・まだまだ書きたいのだが、これ以上は明日(もう5月1日になる)にまわす。まだ疲れが残っている。・・・今日(5月1日)こそは書き上げるぞ。
秋吉洞にはおもしろい形のものが多くあった。それらには名前がつけられていた。「大椎茸」「大松茸」「くらげの滝のぼり」「大黒柱」「空滝」「黄金柱」・・・もっとあったのだが、これ以上は憶えていない。一つ発見したのが、石の壁がはっきりと水面に写っていて、どこが水面か分からないほどだったことだ。だから、下にまだ壁が続いているように見えた。それほど水面が静かできれいだということだろう。発見できて得した気分だ、と二人で喜びあったものだった。
秋吉洞を出て、二人で話をしながら駐車場に向かった。このとき、僕はまたいつか来たいと言った。ここは、老人でも恋人でも親とでも誰と来てもいいのではないかと思う。いつか誰かとまた来たい。
駐車場まではかなり遠かった。途中の道沿いに店が並んでいた。水路に、たくさんの鯉が泳いでいた。立ち止まり、座って鯉をしばらく見た。大きい鯉がいたことを憶えている。
Tさんの運転で出発した。少し戻り、秋吉台の壮大な景色を撮った。車の前で2人で写った。
秋吉台の次に向かったのが、温泉である。湯谷温泉という。「グランドホテル・ニュー湯谷」というまだ新しい建物の露天風呂に入った。700円だった。屋上にあり、室内風呂と露天風呂があった。30分程入っていたので、のぼせてしまった。しかし、温泉の気持ち良さはしっかり味わった。
再びTさんの運転で出発し、下関に向かった。途中で食堂に立ち寄り、夕食をとった。8時から10時頃だっただろう。Tさんは姉に電話をかけた。僕はとんかつ定食にした。普段あまり食べたことがなかったが、たまにはいいだろうと思ったのだ。結局ご飯を残してしまった。
食堂を出た後には近くの本屋に寄って立ち読みをした。このとき、久しぶりに「おーい竜馬」を読んだ。ちょうど竜馬が暗殺されるところだった。漫画であるので、暗殺される様子がよく分かった。
本屋を出た後も頭から離れず、Tさんに話すと彼は祖父から聞いた戦争の話をしてくれた。
この日は火の山公園の駐車場に車を止め、ここで寝た。関門橋が見え、九州はすぐそこだった。その気になれば九州で寝ることができるなと言ったことを憶えている。11時前に寝た。
今後悔しても仕方のないことだが、この人にロープウェイに乗りましたか、ぐらいは尋ねてもよかったと思っている。そうすれば僕らもロープウェイに乗る気になったかもしれない。後で知ったのだが、火の山からの夜景は日本三代夜景のひとつに数えられるほど素晴らしいものらしい。図書館から借りて持参したガイドブックに書いてあったのに、見逃していた。今回の旅の唯一の失敗と言ってもいいだろう。しかし、関門橋を見れただけでもよしとしよう。
朝食は夕食をとった食堂の隣の隣の喫茶店に入った。僕はこういう場所に慣れていないので、コーヒーの甘さの調節に失敗し、まずくしてしまった。だがパンと目玉焼き、サラダは朝食にちょうど良く、たまにはこういう店にも入ってみるもんだと思った。
この旅最後の目的地、東行庵に着いたのは10時頃だっただろうか。僕は案内板を見て驚いた。飯田蛇こつの句碑がそこには載っていたのだ。その俳人は高校の英語教師に似ていたので、印象に残っていた。これは写真を撮っておかなければ、と決めた。
とりあえず東行記念館に入った。入ったときには3ー4人程いたが、出るときには僕ら2人しかいなかった。記念館は2階建てで、1階には写真のコンテストの入賞作品が展示されていた。維新史料は2階で展示していた。階段を上がると左右に部屋があり、左は高杉晋作の日記、右には遺品が展示されていた。まず右の部屋に入った。吉田松陰遺墨館でもそうだったが、高杉晋作の生涯を知らない人も分かるように説明書きがあった。
僕が感動したのは、テレビ番組で見たことのある上海のみやげであるアルバムがあったことだった。手にとって見ることはできなかったが、それでも実物を見れて嬉しかった。他にも妻雅子にあてた遺言の手紙も見ることができた。山県有朋に譲りながらも後で取り返したというひょうたんも見ることができた。さらに功山寺で決起したときに着ていた具足も見ることができた。
高杉晋作の日記が一部訳されて展示されていたのも予想外だった。「試撃行日譜」「遊清五録」「せつ禦日誌」等まさか見れるとは思っていなかった。
記念館を出て、句碑を探しだし、写真を撮ってもらった。次に高杉晋作の墓を見て、観音があったので参拝した。途中、いくつか墓があったがTさんは「墓じゃないみたい」と言っていた。全くその通りだった。僕は白石正一郎の墓を見つけた。やはり高杉晋作の墓の近くに葬られたんだ、と納得した。どうやら奇兵隊士の墓が多いらしい。
高杉晋作の陶像の前で一人ずつ写真を撮った。それから向かったのは、道を挟んだ向かい側にあった碑らしいきものだった。一段下では家族が弁当を広げていた。僕はああいうふうにして食べるといいだろう、と言った。
戦没者の碑のそばに僕は座った。Tさんも座った。周りではウグイスの声が聞こえていた。他の鳥も美しい音色を奏でていた。前の道を車が通るものの、のどかで落ちついた場所だった。僕らはここでしばらく話をしていた。何故か傷の話になり、お互いの傷を話し合った。Tさんの弟の話も聞いた。
話は手話に入り、僕は「友だちや好きな人が耳の聞こえない人だったら、手話を憶えようとするけど、そういう人が周りにいないと憶えようとしない」と発言した。
他にも僕は昔野口英世なんかの伝記を読んで医学者になって筋ジストロフィーなんかの難病を治すのが夢だったけど手術なんかがいやで、誰かに託すことになったと言った。
そうして結構時間を使い、12時頃だったか立ち上がった。前にいた家族の姿はなかった。Tさんの運転で出発し、小月インターから中国自動車道に入って帰路に着いた。
途中で運転を代わり、教習を受けるような感じでアドバイスを受けた。周りには車はほとんどいなかったが、高速道路は難しいものだと感じた。途中で後ろからパトカーが来たので、どきっとして運転が乱れてしまった。サービスエリアに入るとき、うまく減速できなくて「パトカーみて動揺してるやろ」と言われた。
サービスエリアの食堂で昼食をとった。僕はラーメンを食べた。食べた後たいやきを買った。本当に久しぶりに食べた。ここからは家までTさんが運転した。行きとは違って山の景色がきれいだった。
7時か8時頃、無事帰宅。別れ際にみやげをもらった。薩摩とんこつ生ラーメンと鯛めしだった。今回の旅で、1番よかったのは、萩城の茶室と東行庵の近くの戦没者碑でぼーっとしたことだった。ちなみにTさんは松下村塾だそうだ。