信濃・越後


データ

期間:1998年8月20日〜22日

交通手段:自動車

ルート:河芸町〜長野県〜新潟県上越市〜河芸町

観光地:高遠城、龍岡城、小諸城、上田城、松代、飯山城、高田城、春日山城


8月20日

 8時起床。のんびりしていたので、10時過ぎにようやく車で家を出た。とりあえず四日市までは国道23号で行こうと決めて、北上した。四日市で軽い渋滞にあったが、別に急いでいないのでこのまま23号で愛知県まで行った。

 左折して国道302号に入った。順調に進んでいたのだが、つい前の車につられて高速のレーンに入ってしまい、高速を使うはめになった。そのまま国道19号の看板が出るまで走った。結果的に渋滞にあわずに済んだのでよかったのかもしれない。

 19号を走りつつもいずれは中央道に入ろうと考えていた。候補は多治見と中津川だったが、多治見までが走りやすかったことで中津川から入ることにした。伊那インターまで走った。走りやすい道だった。伊那から看板通りに国道361号で高遠町まで行った。高遠城も全く迷わずに発見できた。素晴らしく順調だ。だいたい15時頃に着いた。

 駐車料金で500円取られた。別に花見のシーズンでもなく、がら空きだったのでちょっと納得がいかなかったが、まあ(おかげで)安心して散歩ができた。高遠城についての予備知識はほとんどなかったが、武田信玄の息子の仁科盛信が織田方に攻められて死んだ城らしかった。また意外なことに摂津富田から誰かは知らないが移ってきたことがあるらしい。詳しくは忘れたが、摂津富田の文字があったので驚いた(摂津富田は高槻にある駅名でもある)。

 城内には門があったが、問屋か何かの門で、昔の城門ではないらしい。なかなかまぎらわしい。あと太鼓櫓もあるのだが、これは明治後期に造られたものだ。ちょっと変わった建物だ。仁科盛信を祭る神社もあった。城内には石垣はあまりないが、土塁と空堀がよく残っている。郭などがはっきりと区切られているのが分かった。思ったよりも広くなく、歩くのにはちょうど良く感じられた。

 本丸から少し離れた場所に大手門跡がある。そこには当時の石垣が残っていた。周辺にも石垣があるが、これはおそらく後になって造られたものだろう。駐車場に向かって歩くと、左手に楼門があった。これはかつての追手門だそうだ。しかし説明には「縮小されている」とあった。いったいどういう風に縮小されたのだろうか。

 再び駐車場に向けて歩くと、またしても左手に門があった。くぐるとそこにはかつての藩校だった進徳館があった。誰もいなかったが、空いていたので入った。それにしても誰も常駐していないのには驚いた。だがのんびりと見学できた。案内放送のボタンが2つあり、「おとな用」と「こども用」と書いてあった。「こども用」を押したが、普通のアナウンスが流れた。もっと言葉遣いまで子供向けのものかと思っていたので、拍子抜けした。

 今日は時間的に高遠城だけになった。とりあえず道の駅まで行こうとフタタに出発したのだが、方向を間違えてしまい、全く逆の方へ数キロ走ってしまった。気が付いて戻ったのっだが、またしても迷ってしまい、結局反対に行き過ぎてしまった。また引き返し、ようやく正しい道に入った。

 それは国道152号で、茅野に向かう路線だ。ちなみに次の目的地は龍岡城、小諸、上田なので、その近くにある道の駅で泊まることにした。着いたのは19時前だったのでちょっと早すぎた。とりあえず近くの食堂でラーメンを食べた。

 そして道の駅にある「やすらぎの湯」とかいう(さっき入ったばかりなのに名前忘れた…)浴場へ行った。大浴場は久しぶりだったので、かなり気持ちよかった。偶然道の駅にあったから助かった。(98/08/20 21:40:49 記入)

8月21日

 0時過ぎ起床。昨日は21時過ぎに寝たので、3時間程度しか寝ていない。何回も寝ようとしたのに、寝ることができなかった。3時半だったと思うが、業を煮やして出発した。国道142号で望月町を通過した。「信濃戦雲録」の主人公を思いだした。だが夜だったし、何があるかもよく分からないので素通りした。

 望月町に入る前だが、山道で結構濃い霧が発生していた。真夜中だったこともあって、不気味だった。霧を過ぎると星が多く出ているのに気づき、車から降りて眺めた。四国で見たときには及ばないかもしれないが、星が多すぎて不気味に見える程だった。

 臼田町に入り、難なく龍岡城を発見できた。まだ暗かったので一眠りしようとしたが、やはり眠れなかった。(98/08/21 22:55:02 記入)…書くのを怠けているうちに、すっかり時が経ってしまった。さて、龍岡城は、星形をしたいわゆる五稜郭である。築城は幕末なので新しい城と言える。「日本で2つだけ」とかいう看板があった。函館の方角を示す看板もあった。

 残念ながら完全な形で残っているわけではなく、堀が欠けていた。だが歩いて1周はできた。行ってみて初めて知ったのだが、城内は何と小学校になっていた。こんなところで学んだり遊んだりできるのだから、何とも幸せな小学生だ。当然だれ一人城内にはいなかったが。

 さらに城内には当時のものと思われる台所(だったと思う)がぽつりと建っていた。他に神社(だったと思う)もあった。次の目的地に向かう前に、車で城の周りを1周しようと思ったのだが、1周できないようになっていた。ちょっと残念だ。もっと城全体をを整備してほしいと切に願う。

 北上し、小諸に入る。道を間違ったものの、7時前頃小諸城(懐古園)に着いた。開園は8時半だったので、しばらく車の中で過ごした。8時頃に歩いて大手門まで行った。大手門へはJRの線路を渡らなければならない。小諸駅の歩道橋を使った。

大手門裏(?)側

 大手門を目の当たりにし、その大きさに驚いた。だが同時に、ぼろぼろなのにも驚いた。看板に「貴重である」と書かれていたのは何だったんだと思ったが、近々修理するということだった。大きさの割に通路は低くて狭かった。それにしても小諸城にこんな立派な門があるとは知らなかった。今まで三の門しか知らなかった。嬉しいことに、驚いたのはこれだけではない。

 さて再び線路を渡り、懐古園に入園した。三の門はまあ写真で見ていた通りだった。ただ裏から見ると拍子抜けした。弘前城の天守の様に、簡略化されていた(ように思えた)。面白かったので、裏からだけ写真を撮った。

 城内を歩いて驚いたのは、石垣のすごさである。よく残っているといえると思う。また誰かの肖像が石垣の石に埋め込まれていたり、俳句が彫ってあったりと、趣があった。そういえばこの地は島崎藤村ゆかりの地だ。

 藤村記念館があったので、入った。彼は城の近くにあった小諸義塾で先生をしていたそうだ。写真が多く残っていた。ここでの新たな発見は昔授業で習った「初恋」の詩にメロディがついていたことだ。「まだあげ初めし 前髪の」で始まるその詩は結構気に入っていた。今思い出したが、多分中学校のときに習ったと思う。

石垣 記念館に入る前だったと思うが、石垣から生えている草が滝のように見えたので感動した。思わず写真を撮ったが、感じが写せているかは分からない。まさに自然の芸術だと思った。

入園券がセットになっていたので郷土博物館と小山敬三美術館にも行った。少し離れた場所にある。行く途中に古墳の石の一部が写されたのを発見した。古墳にも出会えるとは思ってもいなかった。

 同じ道を引き返し、再び城内に入った。藤村詩碑があり、奥に水の手展望台があった。いい眺めだった。そして奥に向かって進んだのだが、左手に本丸の石垣が見えた。結構長く続いており、壮観だった。本丸に入るとすぐその石垣に登った。そして天守台まで歩いた。

 とにかく小諸城がこんなに素晴らしいとは知らなかった。一番驚いたのは石垣の素晴らしさだが、これはあまり期待していなかったからかもしれない。ちなみに小諸義塾記念館や動物園や遊園地には行かなかった。(98/08/24 22:36:17 記入)

 次は上田だ。途中海野という地名があった。望月、海野といえば真田十勇士を思い出す。まあそれはいいとして、小諸城の反動か、上田城ではあまり感動しなかった。だが、無料駐車場があったのは感動した。終車料金は結構悔しい。だいたい旅で大きな出費はガソリン代だが、入場料や駐車料も馬鹿にならない。

 上田城では門が復元されていて、両脇にある櫓共々中に入れたのは嬉しかった。櫓はどちらも2階まで上がれた。日光が入らないからだろうが、中は涼しかった。ここでも博物館と山本鼎記念館と共通だったので、入った。セットで売るのはちょっと困る場合もある。売る側にしてみれば都合がいいのだろうが、買う側にとってはベストな選択ができない。あと上田城で書いておきたいのは、石垣が失われていることだ。「石垣跡」とかいう看板があったのはちょっと寂しかった。

 次は松代だ。今地図を見て気が付いたが、葛尾城が途中の道にあった。この葛尾城と砥石城は武田信玄が攻めた城だ。確か上田原の戦いと砥石城で戦があったのではなかっただろうか。どちらも武田軍は負けている。

 松代に話を戻すが、松代が長野市だったとは知らなかった。ともかく松代は城もあるし、幕末の学者である佐久間象山出身の地だ。移動中に気が付いたが、松代と春日山城が今回の旅のメインになる。

 まずは松代城へ行った。辺りにはここを治めていた真田氏の邸跡などがあるのだが、城とは線路で分断されている。線路の向こうにある松代城はあまり見向きもされていないような気がした。実際ほとんど人はいなかった。だが現在復元整備中であり、門を建てたりするらしい。かなり荒れているようだったので、完成が非常に楽しみだ。

 実際石垣が積み直されていたりしたのだが、残念なことに天守台には入れなかった。これは非常に残念だ。本丸を取り囲む石垣を天守台から見たかったのだが。しかし本丸の真ん中辺りに立体的に縄張りを再現したものがあった。だが復元整備で最終的にそれがどうなるか分からない。

 真田宝物館・真田邸・松代藩文武学校と見てまわった。宝物館でパソコンを使ったクイズや案内があったのが興味深かった。結局自分が関わりたい仕事というのはこういうものなのかもしれない。比較的正確性が要求されないから、のびのびとできそうに思える。

 ちょっと選択を誤ったのだが、歩いて象山記念館まで行った。道路工事のおかげで道に迷い、かなり歩くはめになった。(98/08/24 23:40:38 記入)…また1日経ってしまった。記憶が…。書き忘れていたが、龍岡城を去って次の目的地に向かう途中、雀を轢いてしまった。早朝だったので油断していたのだろうか。道路に集団で散らばっていて、飛び遅れた1羽がいたのに気が付き、もしやと思った。引き返すと、やはり倒れていた。僕にできることは他の車にめちゃくちゃにされないよう埋めてあげることだったが、そこまでの勇気はなかった。黙ってその場を立ち去ったが、ショックは大きかった。

 話は戻り、象山記念館である。象山が「ぞうざん」と読むとは知らなかった。今まで「しょうざん」と読んでいた。佐久間象山には特別な思いはないが、幕末の偉人だ。2階ではアニメが上映されていた。学者らしく落ち着き払った象山だったが、「おーい竜馬」という漫画の象山の印象が強かったので違和感を感じた。

 かなり歩き疲れていたものの、近くの象山神社に寄っていった。偶然にも高杉晋作や久坂玄瑞と面会したという高義亭があった。2階には彼らの写真が飾ってあった。見終わると車に戻って松代を出た。松代には象山地下壕や電信実験を行った楼があったのだが、面倒だったので寄らなかった。

 川中島古戦場には寄るつもりだったが、駐車場があって完全に観光地化しているように感じたので嫌気がさして素通りした。山本勘助の墓にも行かなかったのは今にしてみれば残念だ。疲れていた。どの道を使ったかは忘れたが、とにかく飯山市に入った。せっかくなので、飯山城に寄っていった。

 かなり疲れていたのだろう、「そういえば行ったなあ」程度にしか憶えていない。石垣が残っていたように思うが、どんな感じだったろうか。崩れたと思われる石が土塁の下に落ちていたような気がする。帰る前に一回りしようとすると、門が見えた。

 どんな門だったかは思い出せない。移築だったのかよく分からないが、正統なものではないような気がする。あと門の跡の礎石などの配置が発掘調査によって再現されていたと思う。武道場があり、そこで簡単な展示があったと思うが、中では練習が行われていたので入るのをやめた。

 国道292号を走り、国道18号に合流して上越市に入った。ここで1泊した。まだ夕方だったため高田城の様子を見ることにした。特に期待はしていなかったが、何度3重櫓が建っていた。しかもそのデザインが格好いい。いっぺんに惚れ込んでしまった。これで明日の朝もう1度来ようと決心した。

 少し古いホテル宿に決め、夜に高田駅周辺を歩き回った。まだ19時頃だったのに、人は少なく、商店街はほとんどがシャッターを下ろしていた。コンビニを探したのだが、見つからなかった(次の日の朝、あっさり見つかった)。

 徹夜に近い状態で、早朝から龍岡城、小諸城、上田城、松代城、飯山城、高田城と攻略してきた。そのうえ夜にかなり歩き回った。改めて体力はないが根性はあるなあと感心してしまう。おかげで足が痛くなった。それにしても、1日でこれだけ書くことがあるのは、珍しい。この長さは中国から帰った日以来だろう。(98/08/25 21:24:32 記入)

8月22日

 9時頃起床。予想より起きるのが遅れた。チェックアウトを済ませ、高田城へ行った。3重櫓は、5年前木造で復元したものだそうだ。中にはいると木の香りがきつかった。アナウンスで「夜のライトアップがきれいです」と流れていたので見たかったが、仕方ない。今後見る機会はあるのだろうか…。

 ひとつ気になるのは、櫓の土台の部分がコンクリート丸出しであることだ。土塁の上にあるため下から見上げると目立たないが、階段を上ると少しがっかりする。何とか隠せなかったものだろうか。

 遅れたが、高田城は松平忠輝が築いた平城で、土塁の城である。平城で土塁というのは珍しいそうだ。あと気づいたのは、堀に蓮が一面に広がっていることだ。かなりすごい眺めだった。彦根城を思い出した(彦根城でもこんな光景があった)。

 同じ上越市に春日山城はある。恥ずかしながら、これまで新潟市にあるものと思っていた。有名な城なので看板があり、難なく辿り着けた。(98/08/25 21:44:35 記入)…またしても1日経った。記憶を辿るのが大変だ。上杉謙信の像の前で車を停め、本丸目指して歩いた。像は石垣の上にあり、見上げなければ見えない。もちろん石垣は当時のものではないだろう。

 本丸までは、結構歩いたような気がする。途中毘沙門堂があった。これも後に建てられたものらしい。さらに昔あった場所ではないみたいだ。1段上に毘沙門堂跡があった。何故なのだろう。ちなみに毘沙門堂と諏訪堂、護摩(これで字はあっているのだろうか)堂の跡が連続していた。謙信は真言密教を信仰していたので、祈祷か何かをする場所だったそうだ。

 本丸からの眺めはまあまあだった。たいして印象には残っていない。何故か。やはり集中的に城を訪れているので、慣れてしまったのかもしれない。天守跡は何故か本丸より少し低くなっていた。奥には井戸があり、今でも水があった。

 本丸からはかなりがんばって歩き回った。上杉景勝、柿崎景家の屋敷跡など、ほとんどを見たと思う。城内で一番印象に残っているのは、三の丸だ。当時のままの土塁がよく残り、上杉景虎の屋敷跡もある。特に上杉景虎は小説の主人公になったとかで、訪れる人が多いと看板にあった。だが誰もいなかった。

 次に林泉寺へ行った。上杉謙信が幼少時に修行をした寺だ。入り口に門があり、これは春日山城から移築したものだそうだ。本堂は新築中だった。真新しいピカピカの建物が見えていた。まずは墓所へ行った。上杉謙信の墓や、川中島の戦没者慰霊碑があった。謙信の墓は、元からある墓の背後に新しく造った墓があった。何故こんな格好になったのか、不可解だった。奇妙にしか見えない。

 げげっ今春日山周辺のマップを見ると春日山城史跡広場とものがたり館というものがあるらしい。「堀と土塁の一部が復元され、広場には城の全体模型などがある」「番小屋が復元され」「薬研堀がある」とある。また機会があれば行きたい。(98/08/26 18:53:37 記入)

 林泉寺だが、資料館みたいなのがあった。再び春日山城に戻り、入り忘れた資料館へ行った。土産を買い、城を出た。これで旅の目的は果たした。あとは帰りのルートだが、3つ考えた。1つはもと来た道を引き返しすルート。もう1つはしばらく西に向かい、国道148号で松本に戻るルート。そして3つめは富山まで行って国道41号で南下するルートだ。

 結局3つめのルートにした。昼過ぎに春日山を離れ、順調に高山まで行った。夕方頃だったと思う。高山にも城がある。つい欲を出して寄っていくことにした。2回駐車したのだが、1回目は寺、2回目は神社だった。山になっているので場所は分かるのだが、入り口が分からなかった。

 最終的にはあきらめた。おかげで1時間のロスだ。ルートは忘れたが、とにかく大垣まで行き、国道258号で桑名まで走った。家に着いたのは深夜だった。(98/08/27 14:54:17 記入)


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